るといふ点に異存はないが、これは要するに、戯曲の「附属設備」である。人物の「生活する」状態を説明する一手段である以上、必要なものには相違なく、従つて、ある程度まで演劇の本質に触れるのであるが、結局、一般に考へられてゐるほど重要なものではない。但し、演劇の構成は、前に述べた如く、複雑極まるものであるし、時によると、第二義的なもの、附帯的なもの、殊に、本質を本質として活かすそれぞれの「材料」の価値によつて、決定的効果を挙げ得る場合もあるのである。
この問題については、当然後で述べるが、舞台装飾も亦、ある戯曲の演出に於ては、演劇の本質的価値の発揮に、恐らく俳優の演技以上、重要な役割を演ずる異例がないでもない。
が、通常の場合、戯曲さへ傑れたものであれば、その戯曲の本質的魅力は、「裸の舞台」に於ても、十分にこれを発揮し得るといふのが、正しい主張である。
そこで、舞台装飾の必要、且つ、重要な度合は、上演する戯曲が、本質的に、所謂「スペクタクル」的要素を含んでゐる度合に比例するのが当然であり、また一方、如何なる演劇も、本質的に、多少とも、「スペクタクル」の要素を含んでゐないものは稀だといつてもいいのである。ただ、飽くまでも、所謂「スペクタクル」は、厳密な意味で、演劇ではない。少くとも、「スペクタクル」の要素を主とする演劇は、優れた演劇にはなり得ないのである。何となれば、「文学」を軽視した演劇なるものは、音楽を主体とする「舞踊劇」を除いては、如何なる意味に於ても、芸術的感銘に於て幼稚さを免れないからである。
さて、戯曲乃至演劇の本質といふ問題について、簡単ながら説明を終つたと思ふが、なほ附け加へておかねばならぬことは、抑もその「本質」なるものは、戯曲乃至演劇の価値と如何なる関係があるかといふことである。
話を前に戻せば、戯曲乃至演劇の「本質」を説く場合に、所謂「劇的」(ドラマチカル)なる言葉の、普通の意味に於ける解釈では、これを適用することができないといふのが、今までの論旨であつたが、それならば、「劇的」といふ言葉にどんな意味をもたせたらよいか?
また、「戯曲的」「演劇的」等の語も、今日では、大体、旧来のままの意味で使つてゐるが、若しそれが「戯曲乃至演劇の本質的生命」を指すのであつたら、それを使ふ人の「演劇本質論」を一応訊ねてみる必要がある。
これらは何れも、専門
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