得たといふ事実は注目に価する。
詩がリズムを、散文(小説)が観念を生命とするなら、戯曲は、「観念のリズム」或は、「リズミカルな観念の抑揚」を生命とするものである。(この場合、リズムといふのは、詩に於ける如き言葉の音声的リズムではなくて、思想或は感情のリズミカルな波動である。)観念のある程度以上の探さは、このリズムの破綻を伴ひ、リズムのテンポは、観念の一定の流動を強要する。そこに、戯曲の第一の限界《リミット》があるのである。第二の限界《リミット》、これは通常、「戯曲の制約」の一つとして誰でも知つてゐることであるが、戯曲作家は、自ら「物語」を語るのでなくて、「物語」自身に「語らせる」といふことである。即ち人物をして、一切を語らせなければならぬといふこと、作中の人物が、作者に代つて、作者の語るべきことをさへ語るといふ「不自然さ」である。ある数の幕を切るとか、一定の時間内に終るとか、主人公がなければならぬとかいふのは、別に、根本的な制約ではない。さて、これら、二つの限界《リミット》といふものは、実は、戯曲にとつて、「邪魔」なものではなく、「必要な」ものなのである。この限界は、詩の「約束」に類する「戯曲美」発生のルツボであつて、所謂、新しき意味の「劇的感覚」とは、このルツボを通して流れ出る観念とリズムの融合美を、最も純粋に感じ得る能力である。
戯曲に於けるこの「観念」なるものを、特に、「心理的イメエジ」と呼んで差支ない。
演劇に於て、このイメエジは、「聴官」と「視官」とによつて、ある時間内に、誘導的に感覚され、知覚されるが、この耳と眼に愬へるイメエジのリズムは、即ち演劇美を構成する要素で、それがここでまた舞台なる空間的制限と、俳優の肉体的条件といふ、別なルツボを通過しなければならぬ。
さて、このルツボを通して最後に観客に愬へるものは、厳密に云へば、作者と、人物と、俳優、この三つの生命の同時的「滲出」である。この三つの生命がそれぞれ別々な力で観客に働きかける時、印象の不統一から来る感銘の混乱が生じ、そのうちのある一つを無視しても、完全な演劇鑑賞とはいへないのである。
演劇に於ける「美」の本質は、かくの如く複雑であり、その完全な表現は、誠に難しとされてよいのであるが、その結果は、一に俳優を得るか得ないかに存し、この意味で、演劇そのものは、俳優の手に運命が委ねられてゐる
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