であつたと観るべきである。そして、これを戯曲としての文学的所産から、舞台を中心とする劇場の実際運動にまで押し拡めて考へる時、大体次のやうな推移を見出すことができる。
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(一)演劇に近代精神殊に社会的苦悶乃至近代的人生観を盛ることによつて、一つの文学運動たらしめたこと。
(二)演劇の企業化に基くその営利主義的傾向に反抗して、一つの純芸術運動たらしめたこと。
(三)演劇の因襲的法則を打破し、その自由なる表現を求めたこと。
(四)演劇より非演劇的要素を排除し、その本質を探究せんとすること。
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さて、この第一の項目だけで、近代劇の特色は十分なやうであるが、それがさうは行かないのである。第一に、演劇は思想的内容だけで進化するものではない。更に、演劇より文学を排除せよといふ主張さへ、一方には起り得るのである。
ただ、演劇が近代文学、殊に写実主義文学の洗礼を受けたことにより、著しくその面貌を一新したといふのは、先づ現実暴露のメスによつて、舞台を「厳粛」な「人生の断片」と化し、所謂「第四壁」論による演劇的イリュウジョンが、「生命による動き」といふ重大な発見を齎したことに在る。
「生命による動き」といふ言葉は、自由劇場の闘士ジャン・ジュリヤンの演劇論中に用ひられてゐる言葉であるが、これは幸か不幸か、自然主義演劇の精神を伝へたつもりで、その実は、古今の演劇を通じて、凡そ不朽なるもののみが達し得た本質的魅力を喝破した名言なのである。
それまでは、何人も、演劇の本質は「動き」にありと信じ、その「動き」が舞台の生命となるのだと解してゐた。ジュリヤンは、この見解を「従来の演劇」にのみ当て嵌るものなりと説き、「動きによる生命の劇より生命による動きの劇へ」と、自ら標榜する自然主義劇の旗色を明かにしたのであつた。然るに、今日より見れば、「動きによる生命の劇」は、演劇の邪道であり、形骸であり、模造品であつて、「生命による動きの劇」こそ、希臘劇以来の劇的伝統――傑れた戯曲の、それによつて偉大さと光輝とを放つところのものであつた。
しかしながら、演劇と文学の握手は、文学の観念的深化に伴つて、一つの行きづまりを来たさずにはおかないのである。演劇の本質と文学の本質とが、その一点で、相背馳することとなる。
「考へさせる芝居」は、その窮極に
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