台にのせられた厳粛な「人生記録」の中に、当時の演劇批評家は、真に戯曲的なものを発見することができず、ベックはために作家として不遇な生涯を終らなければならなかつた。
仏蘭西近代劇は、ここで、大きな飛躍時代にはひる。
一八八七年、即ち、「鴉の群」が発表された翌年、世界演劇史上、劃期的の事業と目される自由劇場(〔Le The'a^tre Libre〕)が、瓦斯会社の一集金人、アンドレ・アントワアヌ(〔Andre' Antoine〕, 1858−)の手によつて創立された。彼は、もともと一素人劇団の首脳にすぎなかつたが、ふと、素人俳優があるからには、素人作家といふものがあつていい筈だと考へ、周囲を見廻してそこに無名作家の一群を発見した。これが、新流派のために、そして新流派によつて起たんとする年少気鋭の徒輩であつたから、アントワアヌも、自ら期せずして、彼等の抱懐する文学論に与みせざるを得ぬやうになつた。彼の自然主義的演技の目標は、初めて確乎たる主張を有ち、ここにはじめて自由劇場の名に於て、演劇革新運動の烽火が挙げられることになつたのである。
自由劇場を繞る新作家のうちで、華々しくはないが、最も純粋な文学的立場を守り続け、透徹した自然主義演劇の理論づけを試みたのはジャン・ジュリヤン(Jean Julien, 1854−1919)であつた。彼は、その著「生ける演劇」に於て、「舞台は生活の断片なり」といふ名高い標語を作り出し、更に、演劇の本質を論じて、従来の「動きによる生命」の劇を排し、「生命による動き」(le mouvement par la vie)こそ真の演劇美を成すものであると喝破した。彼はしかし、有為な才能をその理論のために涸渇せしめた不幸な作家の一人であつた。
一八八七年から九五年まで、アントワアヌの手によつて世に出で、しかも、相当の名声を齎し得た劇作家はその数に於て決して少くはないが、今日まで、その作品の生命がなほ続いてゐると思はれるのは、クウルトリイヌ、キュレル、ポルト・リシュの三人であらう。
ウウジェエヌ・ブリュウ(〔Euge`ne Brieux〕, 1858−)は、最初から自由劇場の運動に参加した一人であつて、アントワアヌの名に連つて偶然世界的となり、バアナアド・ショウをして勇敢な提灯持ちの役を務めさせたが、これなどは、その真価を論ずる前に、彼の作品のもつ
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