驍烽フといふ感じがするのである。
 これはいふまでもなく、文化史的考察がその土台となつてをり、劇の方面では、それが単に漠然たる傾向の綜合的観念を越えて、殆ど、ある一定のジャンル、芸術上の種別に近いものを示してゐるからである。
 そこで、「近代劇」とは、所謂「近代文学」の流れに沿つて生れ出た「劇」ではあるが、ただ単に、近代思想を盛り、近代生活を描き、近代的感覚を織り込んだといふやうなこと以外に、「劇」といふ芸術形式に対する近代精神の働きかけ、即ち、「演劇的革新」を目標とする本質的努力を具現した劇であつて、そこには、明かに、意識的にもせよ無意識的にもせよ、因襲の破壊と伝統の探究が、何等かの形で示されてゐなければならぬ。
 その意味で、「現代劇」の様々な先駆的現象は、正しく近代劇の本流と結びつくのであるが、この講座(岩波世界文学講座)で私に与へられた課題は、寧ろ近代劇の源に遡ることにあるのだと解し、さういふ立場から、知つてゐることだけを述べてみようと思ふ。

     二 近代劇の血統

 近代劇が如何にして生れたかといふ問題はなかなかむづかしい問題だ。なぜなら、そのためには、先づ世界の演劇史を一と通り漁らなければならぬ。そして、それぞれの国のそれぞれの時代を照し合せて、その間に起つた文学、殊に劇文学の交流作用を見きはめる必要がある。比較文学の方法の利用は、この研究に欠くべからざるもののやうである。
 なほ、各国各時代各流派の代表的作家ばかりについて、何かを知るといふだけならそれほど困難でもないが、近代劇の祖先を誤りなく調べ上げるためには、各国戯曲史の上で、どうかするとささやかな存在として取扱はれてゐるかの慎ましき「先駆者」を見落してはいけないのである。それと同時に、超民族性ともいふべき特殊な素質によつて、或は偶然の機会に恵まれて、逸早く国境を越えたある種の作家が、真価以上の役割を自国以外で演じてゐる事実を警戒し、注意しなければならぬ。さうかと思ふと、ある国で最もその後代に影響を与へたやうな天才的作家が、その作品の純民族的特質に災され、他国の文壇に容れられず、その功績を過少に見積られてゐるやうな場合もある。
 で、私はこれから、自分の専門である仏蘭西劇を中心として、できるだけ大づかみに、近代劇の血統を尋ねてみることにしよう。断つておくが、これと同じ方法で、独逸劇、英国劇、
前へ 次へ
全28ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング