る。例へば今日、「教養」といふ日本語ができてゐるにも拘らず、カルチユアといふ言葉がしば/\使はれる。しかしカルチユアといへば、これはイギリス人的な教養である。カルチユアといふ言葉を使つて、日本人にカルチユアが有るとか無いとか云ふが、これではいかにしても日本的な教養即ち「たしなみ」を連想させない。それはイギリス的な教養の形式的輸入なのである。ところがそれは西洋的な教養でさへもないのである。それを日本人がカルチユアといつて、何か普遍的な意味を与へようとしても無理なのである。かういつた点をひとつ改めて考へなほさなければいけないと思ふ。
 一般に、専門教育を受けた人々は、これは英語に限つたことではないのだが、それぞれ専門にやつた語学を通じて、いま教養の不統一といふ現象を起してゐる。フランス語でやつた人はいくぶんフランス的な教養を身に付け、ドイツ語でやつた人にはある程度ドイツ風の教養がしみ込んでゐる。そしてお互ひにさういふことに気がつかないで、何かお互ひのあひだに本質的な違ひがあるかのやうに感じ、まつたく不思議な考へ方の対立をみせたりしてゐる。これは日本の今日の文化にとつて重大な問題である、或る
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