るが、その英語はイギリス人の使ふ英語でもなければ、アメリカ人の英語でもない、実に独特な英語であつた。独特なといふのは、要するに彼が日本人として英語を使つてゐたといふ意味である。しかも、その英語はよくイギリス人やアメリカ人を感動させる英語であつたとわたくしは聞いてゐる。これはもう当然さうあるべきことであつて、日本人は今さういふ語学力をもつた人を必要としてゐるのである。この心構へが教師にもでき、学生にもできれば、日本人の外国語教育は、従来に比して数倍の効果を挙げ得るのではないかと思ふ。
 それには、まづ語学を試験のために勉強するなどといふことはもちろん絶対に排撃しなければならないが、また、例へば、学生がイギリス人やアメリカ人のやうな作文を書かなくても、彼がその学んだいくつかの言葉を大胆に駆使して、いかにも日本人でなければ書けないやうな作文を書けばそれで満点を付けてやる――といふふうにぜひしたいものである。こゝでわたくし自身の経験をいふと、実はわたくしもフランス語で話したり書いたりするのは不得手でもあり、嫌ひでもある。そのために、フランス語の手紙を書くのが非常に厭やで臆劫であつた。ところが、必要に迫られたからでもあるが、こんなことではとても駄目だと思つて、思ひきり大胆に日本語の直訳みたいな文章で、手紙など綴ることにした。それから急に手紙を書く気持が楽になつたやうに思ふ。そればかりでなく、その手紙が却つて非常に面白いとほめられたことさへある。例へば、ヨーロッパ人ならば、親しい情を表はすために、手紙の末尾に「接吻を送る」といふやうな言葉を記すけれども、日本人にはそんなことはとても気恥づかしくて書けない。そこで、そんな調子で書くよりは、やはり日本人らしく「頭を下げる」と書くはうが面白い。つまり「頓首」とやるのである。それで相手には充分意味も心持も通じるし、日本的な味も出るのである。野口米次郎氏の詩などはさういふところに非常に特徴があるのではないかと思ふ。
          ○
 吾々は中等学校から外国語を学んで外国の言葉を覚え、そして外国人の書いた文章に接触するわけであるが、その場合は、何かしら日本人として「言葉」の機能といふものについて、いままで国語の授業では気が付かないでゐたものを、はじめて発見することがあるやうに思ふ。言葉といふものはかういふものだつたのか、かういふ力を有つてゐるのか、――と気が付いたときから、急に外国語に対する興味が起つて来る。しかも、それは文学といふものに対して、はじめて眼が展けた時でもあるのである。かういふことは、本来ならば、国語教育を通じて行はるべきことである。ところが、これまで日本の国語教育はどうも言葉としてのセンスを国民に与へるやうに仕組まれてゐなかつた。即ち現代の日本人の多くは国語を通じて文学的なセンスを掴み得ないで、むしろ外国語を通じて掴んだといふことが謂へると思ふ。要するに、従来は日本人に対して日本語教育が充分に行はれなかつた。その欠陥を非常に皮肉なことであるが、外国語教育によつて大部分補つてゐたとも謂へるのである。このことは、殊に外国の優れた文学的作品に接するやうになると、一層はつきりして来る。曾つて、或る時期には、外国語をやらなければ新しい現代の文学の真髄に触れられない――といふやうな、日本人として甚だ悲しむべき実情にあつた。将来、国語教育が一層進歩して、これが日本語の正しい力強い訓練といふところにまでゆき得たとしても、なほ且つ外国語が今日までに果してきたさういふ一つの役割は、外国語教育を担当する人々が充分に自覚しなければならないことであると思ふが、いづれにしてもこの点に相当考へるべき問題があるやうに思はれる。この意味から云つて、今日、外国語教育の問題がいろ/\政治的に考慮せられるに当つても、この点を忘れてはならないと思ふ。即ち、外国語を通して触れる文学的なものは、ただたんに人々を外国に親しませるだけでなく、やはり文学の本質に触れさせるのであつて、決してそのために外国を怖れる必要はないといふことである。
          ○
 もう一つ外国語の問題がある。それは日本語の海外進出に伴ふ日本語教育の問題である。日本語をどういふふうな仕方で、外国人、特に大陸の人たちに教へるかといふことは、既にかなり以前から研究されてゐる。現在、一応その初歩の部分については方式も公けに決められてゐるやうだが、私の考へでは、日本語を外国人に教へるために、尠くとも日本人が外国語を学んだ経験がも少し生かさるべきである。しかし、事実は殆ど全くされてゐない。現在では、どちらかと云ふと、日本国内における国語教育を土台にして、それに外国人だからといふ幾分の手心を加へる程度のものが、日本語を外国人に教へる方法の基礎になつてゐる。で
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