あるから文部省辺りでもさういふ一つの基本的な研究をしてはゐるけれども、これに外国語教育の経験者がもつと参加してはどうかと思ふ。これは是非考慮してもらひたいと思ふ。といふのは外国語の教師、即ち外国語を教へてゐる日本人は、最も深く且つ長く外国語を学んだ人たちである。この人たちの経験が日本語を外国人に教へるメトードを創り上げるための最も有力な参考になる筈である。
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最後に、これはちよつと外国語教育の問題からは離れるが、日本では中等学校の殆んど全部が英語を教へてゐる結果、外国語といへばすぐ英語のことしか考へないといふ傾向がある。したがつて、西洋風とか、西洋式とかいへば、それはイギリス式乃至アメリカ風と考へ勝ちである。このことが日本人の外国、特に欧米の認識を非常に誤らせてゐる。西洋と英米とを混同してゐること、これが――わたくしとしてはもう少し詳しく云ひたいことであるが――案外いろ/\のところに影響してゐるのであつて、日本人の正しい西洋認識にたいして著しい障碍をなしてゐるのである。また吾々の日常用語のなかで使はれてゐる英語は日本人の生活のなかにかなりいろ/\の影響を及してゐる。例へば今日、「教養」といふ日本語ができてゐるにも拘らず、カルチユアといふ言葉がしば/\使はれる。しかしカルチユアといへば、これはイギリス人的な教養である。カルチユアといふ言葉を使つて、日本人にカルチユアが有るとか無いとか云ふが、これではいかにしても日本的な教養即ち「たしなみ」を連想させない。それはイギリス的な教養の形式的輸入なのである。ところがそれは西洋的な教養でさへもないのである。それを日本人がカルチユアといつて、何か普遍的な意味を与へようとしても無理なのである。かういつた点をひとつ改めて考へなほさなければいけないと思ふ。
一般に、専門教育を受けた人々は、これは英語に限つたことではないのだが、それぞれ専門にやつた語学を通じて、いま教養の不統一といふ現象を起してゐる。フランス語でやつた人はいくぶんフランス的な教養を身に付け、ドイツ語でやつた人にはある程度ドイツ風の教養がしみ込んでゐる。そしてお互ひにさういふことに気がつかないで、何かお互ひのあひだに本質的な違ひがあるかのやうに感じ、まつたく不思議な考へ方の対立をみせたりしてゐる。これは日本の今日の文化にとつて重大な問題である、或る国の言葉を少し深く勉強し、その国の文化に接触すると、かなり批判的にその国を観てゐても、とかくその国にたいして親しみをもつ。或る意味においてはその国にたいして愛情を感じる。そこで、自分の国についでその国が好きになるのは自然の人情である。ところが、日本人の場合は、どうかすると病膏盲に入つて、自分の好きな国の敵国は、自分の敵国のやうな気がしてみたりする。例へば、フランスが好きな人は、フランス人が嫌ひな民族をフランス人と一緒になつて嫌ふ。であるから、その民族が日本と非常に近い関係にあるやうな場合には、日本人として一種の矛盾を感じるやうなこともあり得るわけである。かういふことは、仮りに人情としては已むを得ないとしても、大いに反省を要することである。もとより外国語を専攻するためにはその国を知らなければならぬ。しかも、或る国を真に理解するといふことは、その国にたいする深い愛情なしにはあり得ない、といふこともまた事実である。かういふ点で従来やゝ溺れるといふやうな傾向が無いでもなかつたといふことは、これは個人としては大したことではないかも知れないが、日本の国民として考へると、その影響は甚だ大である。これは将来大いに考へなければならぬと思ふ。
底本:「岸田國士全集25」岩波書店
1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「改造 第二十四巻第二号」
1942(昭和17)年2月1日
初出:「改造 第二十四巻第二号」
1942(昭和17)年2月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
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