かう云ふのでした。
「昨日のこと、うちには黙つてゝ頂戴。叱られるから……。うちがあなたにお礼を云はなくつても悪く思はないで下さいね。その代り、あたしは一生この御恩は忘れませんわ」
 私は黙つて、彼女の眼を見ました。

 誘はれるまゝに、私は二人のお伴をして海岸に出ました。彼女は、昨日の事件を想ひ出させる場所に来ると、夫の蔭から私の方に笑ひかけました。
「此の方は随分御親切なのよ。昨日あたしが晩御飯に遅れたら、道を迷つたんぢやないかと思つて、わざわざ迎ひに来て下すつたの」
「さうか」夫はそれほど興味が無さゝうに答へました。
 夫は、なぜだか、彼女が私について話すのを厭ふやうに見えました。実際、彼女は、私のことを話し過ぎるのでした。彼女は、それに気がついてか、「処で店の方はどう」などゝ問ひかけるのでした。そして、私には、時々例の微笑を送ることを忘れないのです。
 私は、丁度一人で歩いてゞもゐるやうに、黙つて、自分だけの幻想を楽しみながら、静かに歩を運んでゐました。
 彼女のぎごちない笑ひ声のみが、時々私の頭を掻き乱す外、海浜の暮色は、常の如く、私の心を超実在の世界へ導くのでした。
 あの水
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