海の誘惑
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)濤《なみ》
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 人影のない夕暮の砂浜を、たゞ一人、歩いてゐることが好きでした。
 それは私の感傷癖と別に関係はないやうです。水と空とを包む神秘な光に心を躍らせる外、一向追憶めいた追憶にふけるわけでもなかつたのですから。まして、月が波の上に出るのを待つて、ロマンスの一節を口吟むほど甘美なリヽシズムをも持ち合せてゐない私なのですから。
 が、然し、それは、私の空想癖とは密接な交渉があるらしく思はれます。なぜなら、あの岩角に当つて砕ける濤《なみ》の姿から、常に一つの連想を呼び起し、渺茫たる水平線の彼方に、やゝもすれば奇怪な幻影を浮び出させるのがおきまりだつたからです。

 憂愁を歌つた世界最初の詩人、シヤトオブリヤンの墓から汀《みぎは》つゞきに、「エメラルドの浜」と呼ばれるブルタアニユの北海岸、そこは河原撫子の乱れ咲くラ・ギモレエの岬なのです。
 ホテルとは名ばかりの宿に、私一人が客でした。
「何しにこんな処へ来なすつた」主人は私の顔を見るたんびに、かう訊ねかけたものです。
 それでも、麦の穂が黄ばむ頃
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