れにとつて代らうといふ時代でなく、お互が協力すべきときであるだけに、先づこつちの云はうとすることを、正しく受けとつてもらふことが必要なわけです。そのためには俗な意味での妥協は不必要だが、相手にとつて疎遠な表現によらずして、少くも相手に親しみのある表現を使ふところまで努力しなければいけないのではないですか。
例へば政治の文化性といふ云ひ方なども、政治家には通じない。それを云ひ方を変へれば、わかるといふことがある。それで何処までも政治の文化性などといふ云ひ方でおし通さなければいかんといふことまで考へなくともいゝ。もつとそれをいろいろな云ひ方で、表現するだけの努力を、一般にして貰ひたいと思ふのです。
文学者の言葉にしろ、文章にしろ、文字面とか、意味とか、論理的にはわからん人はないが、文章の雰囲気、言葉の調子といふものが通じないのです。文学者でなければないもの、それによつて政治を新しくしなければならぬといふことは、勿論云へる。また一般民衆は、文学者の云ひ方に余計魅力を感じ、その方がよくわかるといふことも事実で、僕も今の知識層の動きが、寧ろ政治の力よりも、一層民衆に対して働きかける力が大きいと思ふ。であるからこそ、政治に文化性を与へる役割は、知識層がこれを引受けなければならないし、さうすることによつて、政治を民衆に近づけ、民衆を本当に動かす力を政治にもたせるやうに、われわれは努めなければならんのです。
政府から出る公文書や声明書でも、考慮の仕方によつてはもつと大衆に近づき、もつと大衆の心に訴へさうなものがあるんぢやないかと思ひます。何とかもつとうまく云つて貰ひたいと思ふことがよくあるのだが、なかなかむづかしい。当局に注意したいんだが、向うには通じない。文章の巧拙などの問題でなく、そこに何が足りないかといふことを、本当にはつきり指摘して、訂正して貰はなければならんことですが、それは今度みたいな仕事をしてをれば、云ふ機会もあるし、云はうといふ意志もあるが、なかなかにむづかしいことです。
その人でなければ云へないことを、みんな省いてしまふ。さうして誰が云つても間違ひのないことだけが残る。さうして出来上つたものが非常に間違ひないことは事実であるかも知れないが、何か一つの力が抜けてしまふ。然るに個人や民間でものを云つたり、書いたりする場合にはさういふことが全然ないから、それが一
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