考へたら、自分たちのやつてゐるより、もつと大事なことがあるのぢやないかといふことを考へなければならん。
学校・先生・青年
いろいろな学校の例を、聞いたり見たりしてゐるんですが、先生にもいろいろな型があります。一生懸命自分の研究を深めて行つて、その深めたものを生徒に正しく伝へようと工夫することが教師として一番正しいと確信してゐる先生。第二は、とにかく自分は専門家だ、知つてゐることを教へればいゝんだ、その教へるのには、先づ生徒の気持を惹きつけなければならん、そのためには自分の知つてゐることを深めることに努力するより、生徒と自分をなるべく近くして置いて、さうして物を与へ易くしようといふことに努めるのが、いゝ先生の代表的なものと考へてゐる先生。この二つを較べるとき、僕は後の方の教へ方は非常に間違つてゐると思ふ。さういふ先生を、生徒は本当に信頼してはゐないやうです。いゝ先生だと生徒が信じ切つてゐるのは、やはり勉強してゐる先生の方だ。これは殆ど例外なしです。生徒に表面人気があると見える先生は、本当は生徒から尊敬されてゐない。人気があると思ふのは先生自身だけで、客観的に見れば、いはゆる生徒にあまく見られてゐるのだ。これは日本の現在の、いろいろな意味での「道」が廃れてゐる一つの証拠で、道といふ言葉にはいろいろの意味があるが、友人道などでも、その友達に好意をもつならば、逢はなくたつてその友達に対する好意は変らない。友達に何かしてやつて、自分の好意を示さなければ気が済まないとか、非常に浅薄なことによつて友情を取結ばうといふことが、近ごろ友人間の道として、人が一般に認める事実になつたが、これは非常に間違つたことだ。同様に、教師と生徒の間も、本当に自分が教師として立派であることに努めることが、いゝ影響を生徒に与へることだ。これははつきりと確信をもつてやらなければいけない。ところが教師に対する社会の要求が、学問を伝へるだけぢやいかんとか、学生の手を引つ張つてやれとか、早く云へば小乗的な要求が多過ぎると思ふ。しかしこれは一方に、本当に教師の道といふものを知つてゐて、いゝ教師になることを努めてゐる人が少な過ぎるからでもあるが、本質を見極めず、一つの方針を樹てることができずに、なんでもない枝葉の部分で、非常に間違つた要求をすることが、いつでもいろいろなところで多いのです。例へばいま
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