、るいの方を見る。
京野は、扉をあけて、庭の方に降りる。帳場の方で、呼鈴が鳴る。
るいは、慌てて、その方へ行く。
[#ここで字下げ終わり]

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女  (るいの後姿を見送つて)やつぱり、さうですか?
男  さうらしいね。えらく肥つたが、何処かに見覚えがあるよ。
女  船に乗つてゐたつていふんなら、さうにちがひないわ。向うは、気がつかないかしら……?
男  だつて、お前、口を利《き》いたこともなし、一度や二度、多勢の中で顔を見たぐらゐぢや、さう特別に覚えてゐるわけがないさ。向うは、そこへ行くと、僅か五六人の女のうちだ。その一人一人が、噂に上るんだ。あいつは、たしか一番年増で、一番不縹緻だつた。そこへもつて来て、変に行儀がいゝと来てるから、男たちは、そばへ寄りつきもしないのさ。
女  あの人、幾つぐらゐだつたの、その頃は?
男  さあ、あれで、三十にもなつてたかな。おれは、間もなく、その船を降りちまつたから、あとのことは知らないが、十六年も船にゐたといふんだから、辛抱は大したもんだ。なるほど、年を繰つてみると、丁度、その時分だ。おれは、やつと、二十《はたち》になつたばかりさ。雄図勃々といふ時代だ。石炭倉の中で、英語をコツコツやつてた頃だ。
女  そんなら、女の話どころぢやなかつたでせう。
男  さうよ。だから、ほかの奴が、誰はかう彼はかうと、女の名前を云ふんだが、おれは、いちいち、名なんか覚えてやしない。ところが、あいつの名だけは、不思議に覚えてゐる……今でも……。
女  なんていふの?
男  待て……(考へて)おるい……おるい……さうだ。たしか、おるいだ。
女  あなた、さう云つて、訊いて御覧なさい。
男  そんなことを訊《き》いてなんになる。お前の亭主が昔□□丸の火夫だつたつていふことが、あいつに知れるだけだ。
女  今はさうぢやないんだからいゝぢやないの。
男  なるほど、火夫が出世をして税関吏になつた。あの女は、昔のおれに、火夫のおれに会ひたかつたと云ふよ。さうだらう、あいつにしてみれば、このおれに、以前のことを知られてゐるのが、ちよつと、やりきれないかも知れん。向うで気がつかない以上、黙つててやるのがほんたうだらう。
女  何処で誰に遇ふかわからないものね。
男  お前なんかには、それが、なんかの運《めぐ》り合せみたいに思へるんだらう。四半世紀、限られた土地の上を経巡《へめぐ》つてみろ。到る処で、嘗て何かしら交渉のあつた人間にぶつかる。両方で、それを覚えてないことが多いだけだ。

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この時、るいが、また現はれる。
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るい  風呂《バス》へは、何時頃お召しになります?
男  君たちが手のすいた時でいゝよ。
るい  わたくしどもは、そのためにをりますんでございますから……。
男  さうか、却つて、手が早くすかないわけだね。ぢや、こつちで勝手にするから、かまはずにやすみ給へ。
るい  わたくしどもは、十時半に退《ひ》けでございますから……。

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土屋夫人が、はひつて来る。一旦、二階へ上り、再び降りる。ホールへ行き、新聞の綴りを取つて来て、中央の椅子にかける。彼女が、その新聞を読んでゐる間に、夫婦の女の方が、何か男に耳打ちをして二階に上る。
京野が、外から帰つて来る。夫人は、顔をあげて、その方を見る。
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京野  ちよつと、いらしつて御覧なさい。いゝものをお目にかけますから……。
夫人  外へですの?
京野  外つて、すぐ前の亭《あづまや》ですよ。
夫人  なんでせう……。

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両人、扉から外に出る。
部屋には、るいと、男と、二人きりである。時々、二人の視線が合ふ。
長い間。
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男  今の奥さんは、どういふ人?
るい  歌をお詠みになる方《かた》ださうでございます。始終、お一人でお出かけになりますんですが、旦那様はなんでも、東京でお勤めになつてらつしやるやうでございます。
男  (夫人の置いて行つた新聞を取り上げ、それを読みはじめる)
るい  こちらへは、しばらく御滞在でございますか。
男  うん、まあ、ゐられるだけゐてみよう。
るい  どうぞ、御ゆつくり遊ばして……。そのうちに、浜で、松露や、防風が取れますし、釣りもなかなか面白いさうでございます。
男  釣りは、なんだい?
るい  烏賊《いか》でございますよ。
男  あゝ、烏賊《いか》か。
るい  おなじホテルでも、海岸のホテルにをりますと、さういふお話ができますので、わたくし、ほんとにうれしいんでございますよ。海はよろしうございますね。これで、船に乗つてをります頃は、そんなでもございませんでしたけれど、陸へ上りますと、海が恋しうございます。それに、海の上でみる空は、また格別でございますからね。御承知でございませうが、夜、甲板に出て、星を見てをりますと、世の中の苦労を忘れてしまひます。第一、あの星の下で、人間が醜い争ひをするなどとは考へられません。さきほども、土屋様の奥さまに聴いていたゞきましたのですが、たとひ、そこで、わたくしを欺し、わたくしに背《そむ》いた男がゐましたにしましても……。

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この時、土屋夫人が、京野と共に扉をあけてはひつて来る。
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京野  明日《あした》、あの鳥が生き返つてゐたら、僕の勝ですよ。
夫人  えゝ、よろしいわ。あなたに勝たしてあげたいの、あたしは……。むろん、あの鳥のためによ。
京野  さうでせう。ぢや、おやすみなさい。
夫人  さよなら……。

[#ここから5字下げ]
京野は、ひとりで、二階に上つて行く。
夫人は、さつきの椅子にかける。
[#ここで字下げ終わり]

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男  新聞を拝借してゐます。
夫人  よろしいんですの。
るい  奥さま、わたくし、今日は、まつたく、どうかしてゐるんでございますね。さつき、あんなお喋《しやべ》りをしたからでございませうか……。なんですか、胸騒ぎがしてしやうがございません。それに、かう肥《ふと》つてをりますと、何時《いつ》なんどき、心臓をやられるかわからないつて、お医者様もおつしやいましてすから……。
夫人  気をつけた方がいゝわ、あんまり思ひつめるのがよくないんだわ……。
るい  はい、それはもうわかつてをります。ですから、近頃は、なにも考へませんのです。からだもなるだけ使ひません。かうして、楽な仕事ばかりさせていたゞいてては済まないんでございますけれど……。

[#ここから5字下げ]
九時が鳴る。るいは、レコードを外《はづ》す。彼女は、夫人と、男に、恭しく会釈をしてその場を去らうとする。
男、それを見送る。
夫人は、ぢつと、二人の様子をみてゐる。
食堂の燈火《あかり》が消える。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
男  少し病院ですね、このホテルは……。
夫人  (驚いて、男の顔を見る)
男  新聞、御覧になりますか。
夫人  いゝえ……。

[#ここから5字下げ]
夫人は、起ち上る。そして、そのまゝ、階段を昇りはじめる。
男は、左の扉をあけて、外に出る。
やがて、るいが現はれる。電気のスヰッチをひねる。部屋が薄暗くなる。
そこへ、男がはひつて来る。
彼女は、丁度扉の鍵をかけようとしてゐたのだ。
彼女は、「あ」と、ひと声、それは、軽い陳謝の意味に過ぎない。
男は、そのまゝ、部屋を横ぎつて二階に上る。
彼女は、鍵をかけ終つて、静かに、しかし、勿体らしく、部屋の中をひと廻りしてから、やつと右手のホールへ姿を消す。

波の音と共に――
[#ここで字下げ終わり]

[#地から5字上げ]幕



底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「職業」改造社
   1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「中央公論 第四十七年第五号」
   1932(昭和7)年5月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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