きも覚えたんでございますが……なにしろ、時節が時節、周囲が周囲でございますから、異人さんと云へば、そこに使はれてゐるものまで羽振りがいゝといふわけで、わたくしの両親も、つい、一人娘のわたくしを、奉公にまで出す気になりましたんです。それを、どうしたものか、わたくしがいやがりまして……。なるほど、たまには、さういふ娘たちのうちで、よくない噂を立てられたりしたものもゐましたせゐでせうが、母など、口を酸くして勧めますものを、たゞ、いやいやで四五年を過してしまひました。
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それが、ふとしたことから、急に気が折れまして……と申しますのは、その頃、姉妹《きやうだい》のやうにいたしてをりました、近所の、おはつさんといふ娘《こ》が、わたくしに相談もせず、何処かの男と駈落をしてしまつたんでございます。まあ、そんなことから、家にゐてもつまらなくなりまして、幸ひ、たつてといふお話もあり、本牧の、ジョオジ・クレプトンさんとおつしやる、銀行家の御家庭へ上る決心をいたしましたんです。お子様が、十三を頭に、お三方いらつしやいました。旦那様は、今の言葉で申上げますと、立派な紳士、奥様は、貴族出のお方とかで、上品な、几帳面なお方でございました。一番上はお嬢さまで、次は坊つちやま、末のカザリンさまが、むろんお嬢さまで、これが、日本流のお八つ……そのお守を、わたくしが仰せつかりました。ちつともおむづかりにならないので、それや、驚きましたですよ。手がかゝらないと申しちやなんですが、半日、お庭で、にこにこ遊んでいらつしやいます。まるで、お人形さんでございますよ。そこへ行くと、日本のお子様方は、どうしてあゝ御無理をおつしやるんでございませうね。こちらへも随分立派な方々がお見えになりますけれど、お子様をお連《つ》れになると、お母さまや、お女中さんは、お子様の機嫌を取る工夫ばかりなすつてらつしやいます。見てゐて、お気の毒でございますわ。これは、とんだわき道へはひりました。
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夫人 (欠伸《あくび》を噛みしめる)
るい (それに気づかず)それで、その末のお嬢さまが、二十《はたち》におなりになるまで、お傍《そば》についてをりましたんですが、その間、どなたからも叱られたといふことは一度もございません。これはわたくしの自慢になりますか、御主人の自慢になりますか、存じませんけれど、さういふわたくしは、まつたく仕合せだつたと申すんでございませう。お嬢さまが、大きくおなり遊ばす間に、自分も年を取ることを忘れてゐたくらゐでございますもの……。
夫人 (微かに笑ふ)
るい はい?
夫人 いゝえ、なんにも……。
るい さういふ風で、上のお嬢さまは、こちらで、ある外交官におかたづきになり、次の坊つちやまは、香港《ホンコン》の学校を卒業なすつて、そこの商館へお勤めになる……そして、最後に、わたくしのお附きしてをりましたカザリンさまが、いよいよお年頃におなり遊ばしたので、それを機会に、お国の御親戚へお預けになるといふことになりました。多分、御縁談の都合もおありになつたんだと存じます。それで、そのお国までのお伴《とも》を、わたくし、させていたゞきましたんです。このわたくしが、ひとりでそんな大役を仰せつかつたんでございますから、なんと申しますか、もう、自分のことなど構《かま》つてはをられません。四十幾日といふ船の中で、それこそ、夜もろくろく寝ずじまひでございました。私がマルセイユといふ港へ着き、そこへ倫敦《ロンドン》からのお出迎へがございまして、わたくし、ほつといたしましたんですが、その船でまた日本へ帰つて参ります時は、精がなくて精がなくて、どなたの前でも、つい涙がこぼれるんでございます。事情を御存じの事務長さんや、チーフ・メートさんが、いろいろ御深切におつしやつて下さいますし、わたくし、たうとう、それから、御主人にお暇をいたゞいて、馴れないことではございますが、その船で働いてみることにいたしましたの。縁と申すものは不思議なものでございますね。夢にも考へてをりません船の上の、云はゞ命がけといふ仕事でございませう。それが、ぴつたりわたくしの性《しやう》に合ひましたんです。海が荒れるくらゐ平気でございました。殿方でさへ、召上りものが進まないといふ日に、わたくし、却つて、御飯が余計いたゞける始末で、みなさんから笑はれたんでございますけれど、ほんとに、海上生活つて申すものは、よろしうございますね。毎日毎日が、云ふに云はれない楽しみでございましてね。先々の港が眼に浮びます。始終、明日を待つやうな気持は、陸にゐてはわかりません。殊にわたくしどものやうに、自分の望みといふものがないものには、せめて、行先のあてでもなければ、その日その日が真つ暗でございます。かうしてをりましても、明日のことは、考へようにも考へられないぢやございませんか……。(そつとハンケチを出して涙を拭く。が、調子は前よりも朗らかに)ですけれど、わたくし、今でも時々、このホテルが、船の中みたいに思へることがございますんですよ。ほら、波の音が聞えませう。燈火《あかり》を消して、寝台《ベッド》に寝てをりますと、なんですか、自分のからだが、部屋ごと動いて行くやうな気がいたしますの。いゝえ、さういふ時ばかりぢやございません。廊下の掃除を見廻つたり、かうやつて、こゝで蓄音機をかけたりしてをりますときでさへ、急に、今度は、何処の港へはひるんだつけ、などと、とてつもないことを考へ出すことがございますんです。そんな時は、娘時代のやうに、動悸が高くなつたりして、自分でも可笑《をか》しいくらゐでございますよ。それで、近頃は、自分でわざとさういふ気分を作り出すやうにいたしてをりますの。割にうまく行くんでございますよ。窓から不意に、外の芝生が見えたりいたしますと、今度は、逆《ぎやく》に、がつかりすることがございます。
夫人 どうして船をおよしになつたの?
るい それがでございますよ。奥さま……わたくし、怪我をいたしましてね、こゝの骨を(胸を押へ)二本、ポキリと折られてしまひましたんですの。
夫人 まあ、危《あぶな》い。何処かから落ちでもして……?
るい いゝえ、ロープに足をすくはれたんでございます……。荷物を揚げますときにね……綱がございませう……あれでよく、やられるんでございますよ。
夫人 それでも、船は懲りませんか?
るい 自分の過《あやま》ちでございますもの。
夫人 さう、さう、さつきの、肝腎のお話は……?
るい なんでございましたつけ……あゝ、わたくしのロマンスでございますか。……(笑ふ)
夫人 (これも、釣り込まれて笑ふ)御自分のロマンスとおつしやるからには、よつぽど自信がおありなのね。
るい (また笑ひこけ)奥さま、いけません……。ぢや、もう、それは申上げません。
夫人 あら、そんなことつてないでせう。前置きだけ聴かしといて……。
るい それも、長たらしくね……。いえ、別に前置きのつもりぢやなかつたんでございますけど……話が、から下手《へた》でございましてね……。余計なことばかり申上げました。
夫人 いゝえ、どういたしまして……。では、そろそろ、本筋に……。
るい これは、まつたく、内証話でございますよ。いゝえ、内証にもなんにも、これまで誰にも話したことなんかないんでございますけれど、奥さまに、たつた一言《ひとこと》、「お前の気持はわかる」と、さうおつしやつていたゞきたいばかりに……。でも、あんまりなお話でございますからね……。まあ、旧《ふる》いことといふだけが、幾分、お聴きづらくなく、聴いていたゞけるかと存じます。
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先程も申上げました通り、船の中では、お客様を除けば、女と申しましても、わたくしの外、六人つていふ人数でございました。そのうち、亭主持ちが二人、あとの三人は、二十《はたち》を越したばかりといふ娘つこでございませう。やかましく云はれながら、蔭で何をいたしてをりますか、わかりやいたしません。それに、一方が、御承知の荒《あら》くれでございます。わたくしどもの前でさへ、ずゐぶん眼にあまることもございました。さういふ中で、年も年でございましたけれど、わたくしだけには、誰一人、戯談《じやうだん》を云ひかけるものもございませんでした。それでも、三十五つて申せば、ねえ、奥さま、世帯を持ちませんだけに、まだ、心も、からだも、そんなにお婆さんにはなつてをりません。さういふ人たちのふしだらな真似《まね》を、一方では苦々《にが/\》しく思ひながら、一方では、実のところ、まあ、嫉《や》けるとでも申しますんですか……。御免遊ばせ、こんな言葉使ひをいたしまして……。お笑ひになりますけれど、それは、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ぢやございません。今ですから、申上げられますんです。
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夫人 それで笑つたんぢやないんですよ。あなたの率直なお話が、いゝ気持なんですわ。
るい はい、率直も、度《ど》が過ぎてはと存じますけれど、今日は、真《ま》つ裸《ぱだか》になつてみる気でございます。後がどんなにせいせいするだらうと思ひますと、もう恥も外聞もございません。それに、奥さまのやうな、お優しい、物事のよくおわかりになる方《かた》に、洗ひ浚ひ聞いていたゞけるなら、ちつとも心残りはございませんです。
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で、まあ、そんなわけで、一年ばかりは過ぎてしまひました。その時分の、妙に、焦《い》ら焦《い》らした気持を、もつと、上手に、はつきり申上げたいんですけれど、なんですか、自分では可笑《をか》しくつて、口には出せません……。十六七から二十《はたち》頃までの、あの……憧れ……とか、申しますんですか……あんな心持に似てはをりますが、何処かずつとさし迫つた、いやに刺々《とげ/\》しい気分なんでございますね。時によると、捨鉢なことも云つてみたいやうな、それでゐて、控へ目なところも見せたいといふ、なにしろ、考へれば考へるほど、やゝこしい気持でございます。それも、まあ、自分はどんなことがあつても、ほかのもののやうな真似《まね》はしないつもりでをりましたんですから、その点、別世界の人間であつていゝ筈なんでございますけれど、わたくしと幾つも違はない亭主持ちの女でさへ、やれ、誰それが変な眼附をしたとか、やれ、どのお客様が、背中へ手をおまはしになつたとか、そんな噂話を得意になつてしてゐるのを聞きますと、それは、こつちに隙があるからだと窘《たしな》めてやりたいほどですのに、若しそんなことでも云はうものなら、向うは、きつとわたくしに、「いやさうぢやない、あんたに誰もそんなことをしないのは、あんたが……」と云ひかけて、くすくすと笑ふだらうつていふ気がいたしますんです。なるほど、その先は、云はれなくつても、わかつてゐる筈でございます。それに気がつかないほど、わたくしも馬鹿ではございませんし、それには、正直な鏡つていふものもございます。いえ、それだけは、わたくしも承知してをりました。でも、そこは、奥さま、世の中で、自分が一番醜いと思ふ女はございますまい。自惚《うぬぼれ》でもなんでも、さうは思ひたくないのが人情でございませう。「よし、そんなら……」といふ気に、幾度なりましたか、しかし、それ以上に、自分でどうするといふ工夫がつかないんですから、しやうがございません。男の前へ出ますと、知らず知らず畏まつた調子になつてしまふんでございます。これでも、年を取るだけ取り、女だか男だかわからなくなりますと、もうそんなことは気に病《や》みませんけれど、その時分は、なんと云つても辛《つら》うございました。たまに男の方から、なんでもないお愛想を云つていたゞきますと、もう、それだけで、気持が浮き立つといふ情《なさ》けない状態が、あれでも、二年ほどは続きましたか……。丁度、その頃で
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