夫人  三十を過ぎたお婆さん……。
るい  妙なもんで、多勢の男の中で一緒に働いてをりますと、そのうちの誰にも特別に親しくはできなくなります。
夫人  こつちはさうでも、向うから、誰かが親しくして来るでせう。
るい  まあ、お察しのいゝ……。では、恥ぢを申上げませうか。
夫人  云つて頂戴。云ひ悪《にく》いことなら、云はなくたつていゝのよ。
るい  奥さまには、秘《かく》す必要なんかございません。わたくしも、女ですもの。そんなことが一度ぐらゐあつたつて不思議はございますまい。申上げますわ。
夫人  おや、おや、大変なことになりさうね。
るい  いえ、いえ、決してそんなんぢやございません。奥様方のお耳にいれゝば、きつと、お吹き出しになるやうな話でございます。――えゝと、あれはたしか、わたくしが船へ乗りました翌年でございますから、三十一の年でございます。でも、その前のことをちよつとお話しておかなければ、わたくしつていふ人間がおわかりにならないと存じますけれど……。それも長くなつて、御迷惑でございませうね。まあ、どうして、今日はかう、お喋《しやべ》りがしたいんでせう。どなたかが聴いてゐて下さりさへすれば、生れてから今日までのことを、残らず云つてしまひたい気がいたします。
夫人  おつしやいな。聴いててあげるわ。なんて、うそよ、聴かして頂戴……。それとも、食事のあとで、ゆつくり伺はうかしら……。
るい  どちらでも結構でございます。
夫人  それぢや、途中で失礼するかも知れないけれど、よくつて?
るい  あらまあ、奥様、そんなにお改《あらたま》りになつちや、わたくし、舌が硬《こは》ばつてしまひますわ。
夫人  蓄音機は、かけたまゝでいゝの?
るい  これは、わたくしの受持で、食事の時間中、かけ続けてゐなければなりませんのです。さて、何処から始めたらよろしうございますか……わたくし、生れは、伊勢でございます。両親は、わたくしが七つの時に横浜へ出て参りました。
夫人  ちよつと、そんなところからなの? まあ、いゝわ。えゝ、よくつてよ。
るい  すみません。どうか御辛抱を……。横浜に参りまして、魚商を始めましたんですが、わたくしの覚えてをりますんでは、相当手広く商ひをしてゐたやうでございます。お蔭で、わたくしも、当時、珍しく小学校へも通《かよ》つたりいたしまして、幾分、読み書
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