うたしか、大学へいらつしやる頃でございませうね。
夫人  あゝいふのにさへなつてくれなけれや……。
るい  なんでございますつて?
夫人  いゝえ、こつちのことよ。どら、あたしも一度東京へ帰つて、坊やの顔でもみて来ませう。
るい  ほんとに、時々はね。あちら様でもお淋しくつていらつしやいませう。
夫人  あなた、子供さんは?
るい  それが、わたくし、結婚つていふものを致しませんのです。これには、いろいろわけがございましてね。さきほども、あの御夫婦連れの、旦那様の方にお話しいたしましたんですけれど、わたくし、此処へ参りますまで、ずつと船へ乗つてをりましたもんですから……。
夫人  船へ? あゝ、道理で……。
るい  いえ、それがでございますよ。その船へは、あれで十六年でございますが、その前は、ある英国の方の御家庭に、ずつと御子様附をいたしてをりました。それが、十八の年からでございます。
夫人  でも、お嫁に行かうと思へば行けたでせうに……。
るい  さうは参りませんのですね。若い頃は、お嫁に行くなんてことを忘れてゐたんでございませうか、それに気がついた時は、もう、年を取り過ぎてをりましたんです。をかしな話もあればあるもんぢやございませんか。
夫人  まつたくね。
るい  それはさうと、船に乗つてをります頃が、花でございました。いゝえ、別に、そんな意味ぢやないんでございますけど、生活が楽しいと申しますか、仕事は荒うございますが、一番、人様のために尽し甲斐のある気がいたしました。航海の度毎にお客様のお顔は変りますけれど、ホテルのやうに頻繁ではございませんし、わたくしみたいなものでも、みなさまが重宝がつて下さいますんで、毎日、張合ひがございました。暴風雨《しけ》にでもなりますと、あつちでも、こつちでも、御用が殖《ふ》えます。船にお弱い方は、かう申しちやなんですが、あたくしを頼りに遊ばして、殊に、御婦人方は、なんでもわたくしでなければといふ風におつしやつて下さいますんで、こちらも、お世話をするのに、一所懸命なところがございました。船が最後の港へ着きますと、わたくしは、何時《いつ》も、泣くんでございます。
夫人  船員なんていふのには、相当|頼母《たのも》しい男がゐさうぢやないの。
るい  それや、ゐないこともございません。でも、こつちは、三十を過ぎたお婆さんでございますもの
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