作費にかけ得るからだ、と。また、批評家は云ふであらう、監督の頭脳と技術が、比較にならぬほど優れてゐるからだ、と。しかし、一般の見物は案外正直で、しかも勘がいいのである。即ち彼等の大部分は、西洋映画に於ける俳優の魅力を真つ先に語るであらう。
 いや、それならば興行者も批評家も、それに気づかぬ訳ではないと云ふかもしれぬが、僕の見るところでは、恐らくそれに気がついても、それはどうにもならぬと思つてゐるくらゐの気のつき方で、やつと監督だけが、どうにかせねばならぬと思つてゐるにすぎないやうである。
 それでは、日本の俳優は西洋の俳優に比して、どれだけ劣つてゐるか、どこが劣つてゐるか、何故に劣つてゐるかといふ問に答へてみよう。
 先づその前に、日本人は西洋人に比べて、俳優としての素質が劣つてゐるかといふと、決してそんなことはないと思ふ。ただ、はつきり云へることは、西洋で俳優になるやうな種類の人物が、日本では殆ど俳優にならうとしなかつた、といふことである。もつとはつきり云へば、日本で、かういふ人物がスクリィンの上に現はれて欲しいと思ふやうな人物は、なかなか少くないのだが、悲しいかな、さういふ人物は一人も俳優になつてゐない、また、俳優になる意志はないといふことである。
 この事実は決して、現在の映画俳優が、すべて素質に於いて零であるといふ意味ではなく、可なり優れた素質をもつてゐるものでも、映画俳優を志して、その修業の道程にはいつた途端、人間としての面白味がだんだん失はれ、演技の熟練が全くその線に添つて、積み重ねられなかつたといふ驚くべき錯誤の結果である。
 人間としての面白味、つまり、あらゆる方面で責任ある仕事をしてゐる人物の、おのづから備へてゐる風格といふものは、何よりも、その人物の背負つてゐる生活の反映であつて、俳優も亦、俳優としての生活が、社会的に下らないものである限り、その風格も亦、卑小浅薄、所謂、芸人の域を脱しないのが当然である。
 例へば、頭脳労働者には頭脳労働者の風貌がある。収入の如何に拘はらず、また地位の高下に拘はらず、他の階級のものでは到底真似のできないある種の雰囲気をもつてゐる。今日の俳優で、この階級の人物に扮し得るものが果して幾人あるか?
 僕の意見では、一人もないのである。ところが、俳優の大部分は、実際、その職業を忠実に果し得るためには、一面、立派な頭脳労働
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