せると同時に、別に、一層広い仕事の領域を開拓し、次の時代に悠々濶歩し得ることに気づかないのは不思議だと思つてゐる。(ここで云ふことは少数の新派俳優にも適用する)なぜなら、現在、俳優といふ職業にあること、及び、真の「現代大衆劇」なるものが、まだ生れてゐないことは、次の時代の演劇を「人手」に渡さずに済む、最も乗ずべき機会を与へられてゐることになるからである。
そこで、「現代大衆劇」――面倒だから単に「現代劇」といふが――その「現代劇」を演ずるために、歌舞伎俳優は果してどういふ資格に欠けてゐるか。
この解答は至極簡単である。曰く、「彼等はあまりに現代を知らなさすぎる!」
例を挙げるまでもない。しかし、私は、今、ここで、あまり大きな註文は出すまい。私は、「大衆劇」の話をしてゐるのだ!
歌舞伎俳優が、自ら自分たちの生命を短くし、自分たちの前途を暗くし、自分たちの領域を狭くしてゐる原因が一つある。それはいふまでもなく、彼等の「生活」である。因襲に囚はれた非現代的な「生活」である。
日常の起居のみを云々するのではない。「生活」に胚胎するその因襲的制度について云ひたいのである。
先づ、彼等
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