は、不必要に多数の弟子をもつてゐる。それらの弟子たちは、劇場から給料を貰ひ、しかも、師匠の下僕を勤めてゐるのである。
 給料を貰ひながら、舞台に顔を出すことは稀である。劇場は幹部俳優の背中流しに余分の給料を払ふために、観客から無法な入場料を徴収しなければならぬのである。
 次には、門閥及び階級制度の固執である。出し物と配役に絶えざる揉めを起す原因である。
 大幹部の子弟を、所謂「公達」と呼び、才能の如何に拘はらず、よい地位を与へ、よい役を振り、然らざるものは、永久に出世の道を塞がれてゐるのが常である。かくの如き封建的遺習は、新時代の大衆と接触する上に、致命的障碍であることを知らなければならぬ。
 わかり易い例は、かの映画の人気である。この時代的興行界の覇者は、花形の選択に最もデモクラチックな方法を採用してゐるではないか。
 勿論、舞台俳優の資格は、映画俳優のそれの如く、単純な条件に支配されるものではなく、昨日のタイピスト、今日のスタアといふやうなわけには行かぬが、原則としての人材登用は、歌舞伎劇に新生命を吹き込むものであり、殊に、明日の運命を約束する重大な動機となるであらう。
 俳優がそれぞれ、配役の軽重について対世間的な見栄を張りたがる結果、相当の地位にあるもののために、特別な「出し物」を据ゑなければならず、勢ひ、興行時間の延長を来たし、脚本の選択に無理を生じ、それだけならよいが、「俳優の都合で」くだらぬ脚本を並べるといふ不体裁を犯すのである。
 かういふ状態であるから、われわれは、芝居見物に半日を費さなければならず、その上、高い入場料を払つて観たくないものまで見せられ、芝居は懲り懲りだと思ふのである。
 今日、自発的に切符を買つて、芝居に行くものは意外に少いだらう。その証拠に、劇場には、「連中制度」といふものがある。俳優が自分で切符の押売りをするだけでは足りないので、劇場がその手伝ひをする。連中を多く作る俳優は、巾がきくのである。現在の劇場は、この制度なしに存在し得ぬとしたならば、劇場は、芝居を観に行くところではなくて、俳優の顔を立てに行くところではないか。数字的な根拠がないから、はつきりしたことは云へないが、「連中制度」を廃した場合の歌舞伎劇は、果して、今日の地位を保ち得るかどうか。劇場当事者及び歌舞伎剣俳優の焦慮もここにあらうと思はれる。
 さらに、歌舞伎劇
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