積み最も光彩を放つてゐる人々である。少数の新派俳優、二三の新劇俳優を除いては、現在「芝居の出来る」俳優といへば、大部分歌舞伎畑に育つた人々である。これらの人々は、将来歌舞伎劇そのものと運命を倶にしなければならないだらうか。「おれが生きてゐる間は、歌舞伎の天下だ」と云つて安心してをられる人もあるだらうが、その人たちの子供はどうなるのだ。その人たちの若い弟子はどうなるのだ。
 私は、前に、歌舞伎劇は滅びないと云つた。しかし、これからの劇場は、歌舞伎劇のために、座席の総てを与へようとはしない。二つか三つの劇場は、永久に歌舞伎の家として残されるだらう。或は、ことによると、たつた一つの劇場が、歌舞伎の守るべき城であるかもわからない。
 さうなつた時、歌舞伎俳優はどうするか。
「さうしたら、新しいものをやるさ。腕に覚えはあるんだから……」
 しかし、その時代には、もう、「新しいもの」をやる専門の俳優が生れてゐるのである。やれると思つてゐたことが、やれなくなつてゐるのである。

 ところで、私は、現在の歌舞伎俳優が、「このままで大丈夫だ」といふ迷夢を醒ますことによつて、歌舞伎劇そのものの生命を永くさせると同時に、別に、一層広い仕事の領域を開拓し、次の時代に悠々濶歩し得ることに気づかないのは不思議だと思つてゐる。(ここで云ふことは少数の新派俳優にも適用する)なぜなら、現在、俳優といふ職業にあること、及び、真の「現代大衆劇」なるものが、まだ生れてゐないことは、次の時代の演劇を「人手」に渡さずに済む、最も乗ずべき機会を与へられてゐることになるからである。
 そこで、「現代大衆劇」――面倒だから単に「現代劇」といふが――その「現代劇」を演ずるために、歌舞伎俳優は果してどういふ資格に欠けてゐるか。
 この解答は至極簡単である。曰く、「彼等はあまりに現代を知らなさすぎる!」
 例を挙げるまでもない。しかし、私は、今、ここで、あまり大きな註文は出すまい。私は、「大衆劇」の話をしてゐるのだ!
 歌舞伎俳優が、自ら自分たちの生命を短くし、自分たちの前途を暗くし、自分たちの領域を狭くしてゐる原因が一つある。それはいふまでもなく、彼等の「生活」である。因襲に囚はれた非現代的な「生活」である。
 日常の起居のみを云々するのではない。「生活」に胚胎するその因襲的制度について云ひたいのである。
 先づ、彼等
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