だけは覚えておいたんですのよ――さあ、それが、何時の役に立ちますやら……。
より江 タイプライタアもなすつたんですつて……。
牧子 タイプライタアは邦文の方だけですけれど、速記も序に習ひましたし……。それに、何時ぞや、神田でお目にかかりましたわね、あの頃は、ミシンをやつてましたのよ。
より江 さうですつてね。あれから、もう四五年になりますかしら……。逗子からお通ひになつてたんでせう。
牧子 ええ。兄の病気が、まだひどい頃でした。昼間だけ看護婦についてて貰つて……。(間)それでもあの頃は若う御座んしたわ。
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(沈黙)
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より江 でも、不思議ですわね、こんなところで、お目にかかるなんて……。標札を見ると、大里貢……なんだか聞いたことのある名前だとは思つてましたの。毎日通るんでせう。あなたのお兄様だと知つたら……。それでも、あなたが御一緒にいらつしやるかどうかわからないし……。あれで、昨日、停車場であなたに御目にかからなかつたら、今頃は、まだ知らずに、あの前を通り過ぎてるんですわね。
牧子 あたくしを御覧になつて、どうお思ひになつて……。(間)女も、かういふ生活をしてるとおしまひですわ。(間)さう云へば、あなたは、いま……なんて云つたらいいかしら……どういふ方のところへ……。
より江 あたくし……独りなの。(間)いやですわ、そんな顔して御覧になつちや……。
牧子 でも……。
より江 そんな筈ないつておつしやるんでせう。さうね、御存じなのね。学校を出ると、すぐ、行くには行つたんですけれど、ぢきに出ちまひましたの。出されちまつたのかも知れませんわ。それから、ずつと、かうして働いてるんですの。
牧子 働いてらつしやるつて……。まだ、そのお話、伺つてませんわ。
より江 銀座の、ピリエつていふ、フランス人の経営してる化粧品店、御存じない。あの店にゐるんですのよ。
牧子 まあ。
より江 母と二人、結構暮して行けますわ。男の厄介にならないだけましですわ。
牧子 ほんとに……。
より江 それはさうと、兄さまの、此の御商売も、なかなか面白さうですわね。御繁昌で結構ですわ。
牧子 ところが、商売つていふのは名ばかりで、ほんとは道楽なんですの。ですから、流行らないのは
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