屋上庭園
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)埃溜《はきだめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)随分|我武者羅《がむしやら》を

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
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人物
  並木
  その妻
  三輪
  その妻

所 或るデパアトメントストアの屋上庭園

時 九月半ばの午後
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二組の夫婦が一団になつて、雑談を交してゐる。一方は裕福な紳士令夫人タイプ、一方は貧弱なサラリイマン夫婦を代表する男女である。
男同志は極めて親しげな様子を見せてゐるに拘はらず、女同志は、互に打解け難い気持を強ひて笑顔に包んでゐるといふ風が見える。
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三輪  それで買物は済んだのかい。
並木  買物……? 買物なんかどうだつていゝんだよ。
三輪  此の店へは、ちよいちよい来るの。
並木  ちよいちよい来る。しかし、滅多に買物はしない。此処は、君、屋上庭園でもなかつたら、僕達の来るところぢやないよ。
三輪  僕達も、あんまり此処へは来ないんだが、そら何時か此処から飛び降りて自殺した奴がゐたね、新聞に出てたらう、あれを思ひ出して、今日は一寸上つてみる気になつたんだ。
並木  あゝ、あれね……。

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(一同は、今更の如く、下をのぞいて見る)
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三輪の妻  こつからぢやたまりませんわね。
並木の妻  ほんとに……。
並木  万引をして見つかつたからと云ふんだが、これは確に一条の活路だね。
三輪の妻  活路ですつて……。死ぬのが活路なの。
三輪  さうさ。しかし、僕はかういふ処へ始めて上つて見たが、なるほど、これは一寸変つた処だね。
並木  僕は此の頃、街を歩いてゐても、これと云つて眼を楽しませるやうなものにぶつからないが、此処へ上つて見ることだけは、殆ど日課のやうにしてゐる。
三輪  君らしい道楽だね。
並木  それやさうだ。
三輪  いや、さういふ意味ぢやなくさ……。ねえ、奥さん、今日は久し振りで並木君とも会つたんですし、奥さんとは初めてお近附きになつたんだから、一つ、御一緒にゆつくり食事でもしようぢやありませんか。
三輪の妻  賛成ですわ。
三輪  お前が賛成なこたわかつとる。どうです。御差支はありますまい。
並木の妻  (夫の方を見ながら)でも……。
並木  さうさなあ。
三輪  いゝぢやないか、君……。
並木の妻  このなりぢや、あたくし……。
三輪の妻  あら、あたくしを御覧遊ばせ……。
三輪  着物なんかかまふもんですか。ぢや、どこか気の張らない処へ御案内しますよ。
並木  しかし、僕達はなんだよ……。
三輪  まあ、まかしときたまい。(妻に向ひ)ぢや、お前買ひ物があるなら、さつさと済ませて来ないか。おれはここで並木君と大に談じてるから……。
三輪の妻  (夫の耳に口を寄せて何か云ふ)
三輪  さうさ、あたり前さ。
並木  (妻に)お前も何か見るつて云つてたぢやないか。見て来いよ。
並木の妻  (夫の耳もとで何か囁く)
並木  かまふもんか、そんなこと……。

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女どもは互に顔を見合ひ、笑ひながら退場。
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三輪  なかなか可愛らしい細君ぢやないか。
並木  先手を打たれたか。君のこそ、逸物だね。どこかで見たことがあると思ふんだが、雑誌の口絵かな。
三輪  そんな代物ぢやない。子供はまだかい。
並木  短兵急だね。不幸にして二人目だよ。
三輪  目とは……?
並木  (にやにや笑つてゐる)
三輪  あゝ、さうか、気がつかなかつた。
並木  そんなことはどうでもいゝが、君は、いつまでも若いね。幸福かい。
三輪  幸福でないこともないが、さういふ君は、見かけほどでもないのかい。
並木  見かけはどうだか知らんが、一向パツとしないよ。
三輪  迂闊な話だが、君は、今……?
並木  住んでる処かい。
三輪  あゝ、それも聞きたいが、一体、今、何をしてるんだい。
並木  何つて、何も出来やしないよ。
三輪  学校を出てから、何か書いてるつていふ話は聞いてたが……。
並木  その頃は、あれでも、何かしてゐたよ。今ぢや君、仕事つていふ名のつく仕事は、向うから逃げて行くんだ。
三輪  そんなこともあるまい。

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やゝ長い間。
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並木  (突然、感慨めいた口調で)実際此処は面白い処だよ。あれを見たまへ――向うに見えるのが帝国ホテルだ。僕は、あすこの部屋に一度も寝たことはない。しかし、こゝへ上つて、あの屋根を見下ろすと、帝国ホテルがなんだといふ気になる。あれを見たまへ。あれが日本銀行だ。あの中には、さぞ大きな金庫があることだらうが、そんな金庫なんか埃溜《はきだめ》と同じことだ、さう思へる。これも、変な負け惜しみぢやない。つまり、此処へ上つて見ると、現実が現実として此の眼に映つて来ないんだね。一種のカリケチユアとして映るだけなんだ。
三輪  どうして、また、そんなことを云ひ出したんだい。
並木  それから、あの自働車を見たまへ。僕は、タクシイといふものに乗つたことは生れて二度しか無いんだが――一度は社長を東京駅へ送つて行つた時、家へ判を忘れたから取つて来いと云はれて、実用とか云ふ奴を呼んでくれた、その時と、もう一度は、これも社長の知合とかで、市会議員の候補に立つた男の選挙事務所へ手伝ひにやらされて、何をするのかと思つたら、自働車へ乗つてビラを撒いて歩けと云ふんだ、そん時と……。
三輪  へえ、君はそんなこともやつたのか。
並木  やつたさ。自働車、あれを見たまへ。僕は、自働車といふものは、大体に於て、われわれに泥をぶつかけて通る怪物だと思つてゐる。そいつが、ここから見ると、如何にも無邪気な玩具だ。不器用《ぶきつちよ》で、あはて[#「あはて」に傍点]者で、そのくせ、気取屋で、神経質だ。これは誠に愛すべき動物ぢやないか。
三輪  君は、今、社長つて云つたが、どこか会社へでも勤めてゐるの。
並木  会社といふわけぢやないんだ。小さな本屋さ。それでも、店の名前に社といふ字をくつつけてゐるもんだから、店のものだけは、社長だとか、社員だとか、まあさう云つてるわけなんだ。
三輪  本屋といふと、出版の方だね。
並木  まあさうだ。
三輪  そいつは面白いだらう。
並木  面白いもんか。それに、こゝにかうして立つてゐると、自分の足の下に、一つの美しい世界が感じられる。勿論、それは、贅沢な織物や、高価な装飾品が陳列されてあるといふ意味ぢやない。僕はね、下から上つて来る時に、いつでも、見当をつけて来るんだ。と云つただけではわかるまいが、今、僕が、かうして立つてゐる、丁度此の足の真下に、五階を通じてだよ、一体、何々が陳列してあると思ふ。
三輪  ……。
並木  先づ階下には、羽根蒲団がある。二階には姿見がある。三階には一重帯……。四階には……よさう。だがね、それがみんな、僕等には手が出せないやうなものばかりだのに、それを眼の前に見てゐる時とは違つて、かうして、さういふものの上に自分が立つてゐると思ふとだね、なんとなく、花やかな気持ちになるんだ。所有慾といふものから全く離れてだよ。可笑しいもんだね。僕んとこの奴も、やつぱり、さうらしいんだ。
三輪  それや、さうかも知れんね。それがつまり、浩然の気といふんだよ。
並木  何の気だか知らんが、こいつは便利なもんだよ。早い話が、その一重帯なんかでもさ、去年の夏からせがまれてゐるんだが、どうにもしやうがない。だが、女なんて馬鹿なものさ。見るだけでいゝから、見ときませうつて云ふぢやないか。見るだけ見るんだね。さうして、此処へ上るんだ。一重帯の話はそれつきりさ。今年もどうやら、そいつを締めてみないうちに夏が過ぎさうだ。しかし、彼女は、朗らかな顔をして、よそ[#「よそ」に傍点]の女の着物かなんか批評してるよ。
三輪  いゝとこだね。
並木  何がいゝとこだい。(前の方を頤で指し)あれ、誰だか知つてるかい、あの夫婦連れさ。
三輪  知らない。
並木  大村侯爵の息子さ、あの写真道楽で有名な……。
三輪  あゝ、さうか……。あの細君だね……。
並木  シヤンだらう。
三輪  シヤンといふ点ぢや、君の細君に敵はないよ。
並木  慰めるのはよしてくれ。僕だつて、女の値打ぐらゐわかるよ。処で、君はまだお父さんのうちにゐるの。
三輪  いゝや、別になつた。と云つても、近処は近処だがね。遊びに来ないか。
並木  ありがたう。今になつちや、どうも行きにくいね。むかし通りのつきあひは出来ないね。
三輪  そんなこと云ふ奴があるかい。こつちはちつとも変つてやしないぜ。
並木  こつちが変つてるから駄目だ。貧乏は昔からの貧乏だが、世の中へ出ると、自分のゐるところがはつきりわかつて来るね。
三輪  自分で世間を狭くしちやいけないよ。僕なんか、その点ぢや、随分|我武者羅《がむしやら》を通してるんだ。
並木  さうかなあ。

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長い沈黙。
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三輪  立ち入つたことを訊くやうだが、今ゐる処は、さきざき見込みがあるのかい、君の仕事としてさ。
並木  僕の仕事つて、今ぢや、君、食ふことが仕事だよ。それ以外に何もないよ。
三輪  でも、何か書いてることは書いてるんだらう。
並木  もう止めたよ。誰も読んでくれないことがわかつてゐるのに、こつこつ下らないことを書いたつて始まらないぢやないか。一時は、あれでも、未来の文豪を夢見たさ。それに、おだてる奴なんかがゐたりしてね……。変なもんだよ、君たちにはわかるまいが、あゝいふ社会には、明日にでも好運が廻つて来ると思つて、雨蛙が木の葉の上で雨を待つてゐるやうにだね、ぢつと一点を見つめてゐる手合がうぢようぢよしてゐるんだ。僕もその一人だつたさ。処が、その頃は、自分で力を落さない為めに、せめて人のものでもいゝところはわかるやうな顔をしてゐたいんだね。だから、さういふ人間同志は、お互に、対手《あひて》をかつぎ上げるんだ。しかし、長い間には、自分も疲れる。向うも疲れる。会つても、自分達の問題には触れたくなくなる。それでおしまひさ。何のことはない、店に並んでゐるものを、飾窓に出てゐるものを、見るだけ見て来たと云ふやつさ。
三輪  それなら、僕だつて同じだよ。何一つ仕事らしい仕事はしてやしない。
並木  それとは、また、話が違ふよ。しかし、今ぢやもう、そんなことを悔んでなんかゐやしないよ。落ちつくところへ落ちついたんだからね。云はゞ、どん底さ、と云ひたいが、自分だけは、あべこべに高い処にゐるつもりなんだ。
三輪  ……。
並木  それがね、いやに超然と構へてゐるわけぢやないよ。ただ、割合に、あくせくしないだけの覚悟がついてゐるといふまでさ。
三輪  つまり大悟徹底したわけか。
並木  大袈裟に云へばね。君はさつきから、僕の帽子を見てるが……。
三輪  うそつけ、そんなもの、見てやしないよ。
並木  見たつていゝよ。――この帽子はなるほど古い。今年買つたんぢやない。だからつて、別に、これを被つてゐるのが気恥かしいといふやうな見栄もなくなつてゐる。
三輪  そんなことは、当り前ぢやないか。君らしくもない弁解だね。君から、いろいろ打明け話を聴くのは
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