るんだ。
並木  さうかなあ。

[#ここから5字下げ]
長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
三輪  立ち入つたことを訊くやうだが、今ゐる処は、さきざき見込みがあるのかい、君の仕事としてさ。
並木  僕の仕事つて、今ぢや、君、食ふことが仕事だよ。それ以外に何もないよ。
三輪  でも、何か書いてることは書いてるんだらう。
並木  もう止めたよ。誰も読んでくれないことがわかつてゐるのに、こつこつ下らないことを書いたつて始まらないぢやないか。一時は、あれでも、未来の文豪を夢見たさ。それに、おだてる奴なんかがゐたりしてね……。変なもんだよ、君たちにはわかるまいが、あゝいふ社会には、明日にでも好運が廻つて来ると思つて、雨蛙が木の葉の上で雨を待つてゐるやうにだね、ぢつと一点を見つめてゐる手合がうぢようぢよしてゐるんだ。僕もその一人だつたさ。処が、その頃は、自分で力を落さない為めに、せめて人のものでもいゝところはわかるやうな顔をしてゐたいんだね。だから、さういふ人間同志は、お互に、対手《あひて》をかつぎ上げるんだ。しかし、長い間には、自分も疲れる。向うも疲れる。会つても、自分達の問題には触れたくなくなる。それでおしまひさ。何のことはない、店に並んでゐるものを、飾窓に出てゐるものを、見るだけ見て来たと云ふやつさ。
三輪  それなら、僕だつて同じだよ。何一つ仕事らしい仕事はしてやしない。
並木  それとは、また、話が違ふよ。しかし、今ぢやもう、そんなことを悔んでなんかゐやしないよ。落ちつくところへ落ちついたんだからね。云はゞ、どん底さ、と云ひたいが、自分だけは、あべこべに高い処にゐるつもりなんだ。
三輪  ……。
並木  それがね、いやに超然と構へてゐるわけぢやないよ。ただ、割合に、あくせくしないだけの覚悟がついてゐるといふまでさ。
三輪  つまり大悟徹底したわけか。
並木  大袈裟に云へばね。君はさつきから、僕の帽子を見てるが……。
三輪  うそつけ、そんなもの、見てやしないよ。
並木  見たつていゝよ。――この帽子はなるほど古い。今年買つたんぢやない。だからつて、別に、これを被つてゐるのが気恥かしいといふやうな見栄もなくなつてゐる。
三輪  そんなことは、当り前ぢやないか。君らしくもない弁解だね。君から、いろいろ打明け話を聴くのは
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング