岡田※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」]君の個展
岸田國士
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(例)岡田※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」]
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私が巴里で岡田君を識つたのは、欧洲大戦の終つた一九一九年の初めでありました。同君は既に私より早く巴里に来てゐて、いろいろ巴里の生活に関する知識を与へてくれ、その上、窮乏のどん底にありながら、仕事に魂を打ち込んでゐる有様が、私をまた、絶えず刺激し鞭韃したことも事実であります。
岡田君は、絵について全くの素人である私に、自分の抱負と、既に歩みつゝある道について語ること屡々でありましたが、私の理解したところでは、彼は、和製の西洋画は描きたくない。つまり、日本人臭さで珍らしがられたり、西洋人の模倣で人目を惹いたりすることは、そんなに困難ではないと思ふ。自分は、一旦生活から西洋人になりきつて、西洋人でなければ描けぬ油絵といふものを描いてみようと思ふ。さうすることによつて、油絵の本質にまで踏み込んで行かなければ、ほんたうの自分の仕事にはならぬ。従つて、自分は、人が十年で卒業したつもりになるところを、二十年かかつてもかまはぬ。日本人が油絵具で絵を描くといふ不自然さを脱する道はただそれだけだ――と云ふのでありました。なるほど、さういふ考へ方もあるかなと私は感じました。
同君に、どれだけの才能があるか、素人の私にはよくわかりませんが、たとへ、彼が凡庸な素質をしか恵まれてゐなかつたにせよ、この努力、この意気込は、芸術家としての業蹟に、非凡な何ものかを残さずにはおかないでせう。
果して、彼は、時流を追はず、技を弄ばず、着実に、堂々と、本格的修業に身を委ねてゐるらしく私にも見え、彼の友人の多くもそれを認めるやうになりました。
同君は、秋のサロンにも度々入選し、権威ある批評家の賞讃も受けてゐるやうでした。
私が、日本に帰る時、彼は、そのうちに自信のあるものが出来たら送ると云ひました。恐らくその時期が到つたのでせう。最近、彼はある便に托して、私の手許へ、数十点の作品を送り届け、好きなのを択んで、残りは適当に処分してくれと伝へて来ました。
察するところ、彼は相変らず困難な生活と闘つてゐるらしく
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