れは、文学的価値の一部をしかなさないものである。惹きつけられた処は、日本人にもわかる処か、或は、日本人としての解り方でか、何れにしても、「現はされてあるもの」と、「現はされ方」との間に漂ふ表現の妙味ではないにきまつてゐる。
少し絶対的な物の云ひ方をし過ぎた。
すると、結局、真似た処は、一部分に過ぎない。その部分に、日本人としての「持ち味」を加へればものになるのだが、また少数の芸術家はそれをやつてゐるが、大方の自称文学者は「西洋人にでなければわからない味」なるもの味はひ得ぬ悲しさに、そんなものがあることさへ露知らず、「味のない文学」「味の抜けた戯曲」を書き/\、日本現代劇はこれだと、見得を切つた。
「自分のもの」を作るために、外国文学を研究するなら、「われ/\日本人にはわからない味」があることを発見して、つまらない力み方などせずに、折角、それまで気がついたなら、もう一歩踏み込んで、その「味」がわかるやうに努めたらどうか。
イプセンはもう古いなどゝいふ人間のうちで、イプセンのほんとうの芸術が、あの作品の文学的魅力が、ほんとうにわかつてゐる人間が幾人ある。
表現派が佳いといふ人間のうちで、「朝から夜中まで」の、ほんとうの「劇的韻律」が、「新しい詩」が、「言葉の特殊なイメージ」が、ほんとうに「味はへる」人間が幾人ゐる。
これは、先づ翻訳者に向つて問はるべきことである。
仏国現代の戯曲家と云へば、日本で、ブリユウや、ロマン・ロオランが、持て囃されたらしい。ブリユウや、ロオランの戯曲が、一体、どこが佳いのか。佳いと思ふのは勝手だが、それを真似られては、どうにもしやうがない。
眼に一丁字なきものゝ為めに、パスカルの言も市役所の標語も何等異なる処はない。中学卒業程度の語学力ではシエイクスピイヤの文章も斎藤某の文章も何等異なる処はあるまい。大学卒業程度の語学力なら、それくらゐはわかるだらう。既に進歩である。
外国文学を味ふのは、勿論語学力だけでは駄目である。第一にその国民の生活を識ることである。識るばかりでは駄目である、やはり生活から味はつて行かなければ。
それにしても、それは決して不可能なことではない。
そして、最後の問題は、何と云つても鑑賞力の如何である。知つてゐることしか解らないやうでは駄目だ。
多くの批評家よ、読者よ、見物よ、もつとしつかりして下さい。
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング