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私は今日まで、かういふ考へ方から、「演劇の本質」について、何か自分の腑に落ちるやうな理論を編み出さうと努力したが、これはなかなか困難な事業で、嘗て、やや独断的に樹てた「心理的リズム」説の如きも、それだけではなんのことかわからぬといふ人も出て来て、実はいろいろと苦心をしてゐたのである。そこで、やつと考へついたのが、やはりこれは「演劇の伝統」といふものを、更めて「吟味」してみる必要があるといふことだつた。わかりきつたことのやうだが、「本質」は結局、「伝統」から生れるものに違ひないといふことを、少し忘れすぎてゐたのである。
近頃また、演劇の本質は、「言葉」にある、いや、寧ろ「動作」にあるといふやうな議論が生じ、なに、「言葉」と「動作」の何れにもあるといふ助太刀が現はれ、私自身も、「言葉派」などと云はれる理由のないことを釈明したりしたこともある。
その時の釈明は、まだ十分意を尽してゐない憾みがあつた。私は、「言葉」の中に、重要な本質が含まれてゐることを常に信じてゐたものであるが、「言葉」そのものは、単に、「要素」又は、「方法」であつて、その意味では、「動作」と何等異る地位を占めてはゐない。ただ、今日まで最も有名な説として、殆ど満場一致的支持を得てゐたのは、「劇の本質」はアクシヨンなりと断ずる説である。そのアクシヨンなる語は、恐らく、ドラマの語原から、又は「アクタア」の意味から、更に「三単一の法則」が要求するアクシヨンの単一といふ箇条などから来たのであらう。が、これを何れも同一の概念にひつくるめることは乱暴である。「劇の本質」はアクシヨンなりといふ場合、これを広く「行為」又は「言動」の意に解し、「生命の躍動」とか、「人間の生活活動」とかいふ風な意味に解するとすれば、それはもう、当り前のことで、「舞台の上で、何かが行はれてゐる」限り、アクシヨンは存在する理窟である。走ることも、喋ることも、共にアクシヨンであるし、泣くことも笑ふことも、殺すことも愛することもアクシヨン以外のものではない。が、これでみると、アクシヨンそれ自身は、まだ劇芸術の本質とは云へぬやうである。少くとも、「本質美」とは云へぬやうである。なぜなら、アクシヨンそのものに、「芸術性」があるとは限らず、その選択配列の如何にあるとすれば、寧ろその問題の方が、われわれにとつては重要である。
そこで先づ演劇の本質
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