u生活の断片」劇乃至は、観念暴露の小説的戯曲を横行せしめる結果となつた。のみならず、演劇論上の根拠を曖昧にし、「劇的本質」の探究に一大障害を与へ、舞台の芸術的進化を遅々たらしめ、引いて、劇場の文化的貧困を招く結果となつたのである。
試みに、従来の戯曲論なるものを見るがよい。如何に、悲劇を解剖し、喜劇を分析してゐても、それは、単に、涙と笑ひの哲学を説くのみであつて、「劇」そのものの本質に触れてゐるものは、稀である。たまたま、悲劇と喜劇とには共通点があるといふ意見があるかと思ふと、それはなんでもない。人は笑ひながら涙を流すことができるといふ他愛もない落ちなのである。また古典劇と浪漫劇を比較する場合でも、何れも、古典悲劇と浪漫主義的ドラマの区別に熱中し、「三単一の法則」の難点を挙げるのみで、「劇」的本質の近代的発展が如何なる点にあるかを示してゐない。近代劇についての諸論に於ても然り。写実主義から表現主義に至る解説は十分呑み込めるのであるが、そのひまに、「舞台の生命」は、どこへか消え失せてゐる。思想劇、社会劇、心理劇、性格劇、気分劇などと分類はしても、「戯曲的」なものとさうでないものとの区別になると、大体標準は簡単である。前者は、才能ある作家の手に成り、後者は然らざるものの手に成つたのである。
戯曲作法といふものがある。教ふるところ甚だ懇切であるが、誰もこれを読んで優れた作品を書いた例しはない。そんなものを読んで、戯曲作家になれると思ふのも間違ひであるが、さういふ種類の書物は、少くとも二つの弊害をもつてゐる。第一に戯曲の学び方を誤らせ、第二に、演劇の味ひ方を忘れさせる。
ここにまた、もつともらしい「危機説」とか、「意志争闘説」とか、「第四壁論」とかいふものがある。前の二つは物語の主題として、多くの作者が興味本位の立場からでも、好んで択ぶ事件の内容であり、芸術の本質とは凡そ無縁のものであるし、「第四壁論」の方は、幾分、無自覚な演劇への刺激とはなつたが、近代写実主義の齎した「演劇の散文化」といふ一つの陥穽に通ずる最短の道であつた。更にまた、戯曲の定型として、誰しも口にする、発端、展開、高潮、解決、破局等の段取りの如きは、物語の諸形式の何れにも適用される「順序」にすぎず、敢て戯曲に限つたことではない。如何なる事件の全貌も、この順序を踏まずして、人に伝へることは困難なのである
前へ
次へ
全11ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング