だまだ、舞台全体としては渾然たる域に達してをらぬ節々も多いが、概して、作者、俳優、演出者の、「言葉」に対する感受性と熱意が、舞台の生命を、脈々と波打たせたのである。

 そこで先づ、「言葉派」と「動作派」の対立なるものを解消させておいて、さて、僕のドラマツルギイは、作家としての僕の立場を擁護するものでないことを明らかにしておきたい。これは甚だ妙な云ひ方だが、理論的には本道を目指し、作家としては、稟質上已むを得ず、間道を走る一個の人間を想像し得ると思ふ。かういふ状態がいつまで続くかは知らぬが、僕はその見地から、これまで書いた自分の戯曲が、今日の新劇団の手によつて上演されることを、二重に厭ふものである。第一に、今日までの新劇は、畑が違ふといふ見地、第二に、これからの新劇の健全な発達を、僕の作品程度では、如何なる意味でも助長するに足らぬといふ見地、これは、何れも、己惚れでも謙遜でもない。しかも、一つの劇団で、屡々これを繰り返すことは、百害あつて一利あるかどうか、疑はしい。その意味で、僕は自分を勉強させてくれる舞台が欲しいと思ふだけである。但し、この事実から推して、僕の演劇論までを偏向的だと断ずることはできぬ。西洋の芝居を虚心坦懐に観てゐれば、日本の芝居と西洋の芝居の相違――即ち、それぞれの演劇的伝統の本質的区別がはつきり感じられる筈である。わが新劇の基礎工事は、俳優の「言語的教養」から始めねばならぬといふ結論は、僕のみならず、西洋演劇の舞台的魅力を素直に味つた人なら、誰しも異存のないところだらうと思ふ。
 僕の以上の主張は、理論としてそのまま容れられなくても、劇壇のどこかに、実際の動きとなつて現はれて来さうな気もしてゐる。
 岩田豊雄氏の如きは、その動きをリイドする最も大いなる力であらうことを、僕は飽くまでも信じるものである。

     二、希望

 新劇は、必ずしも西洋劇の伝統を承け継ぐ必要はない――わが国には、わが国固有の演劇的伝統があり、この伝統の上に築き上げられた「現代劇」こそ、われわれの求めるものであるといふ議論も、最近そこここで行はれてゐるやうである。歌舞伎の手法を現代劇の中に活かせとか、対話による心理的表現は日本人には適せぬとか、西洋の劇壇すら今日は日本演劇の方面に眼を転じつつあるくらゐで、日本人はその優れた演劇的特質を大に誇つてよろしいとか、世をあげての国粋主義は、今や、芸術の部門にも、大手をふつて侵入しはじめたかの観がある。
 実際、今日までの新劇の「西洋臭さ」は、誰がみても、少しどうかしてゐたと云へないこともない。が、それは、僕が常に云ふ如く、西洋劇の「西洋的」なるものを尊重し、その「演劇的」なる部分を疎んじた結果、「西洋臭さ」のみが目についたのだらうと思はれる。殊に翻訳劇と称するものに於ては、俳優は「西洋人」になることに汲々とし、台本は日本語らしくない白に充たされ、装置は異国情調に富むを以てよしとされ、演出家は洋式作法にのみ心を配つてゐる様子であつた。が、それはそれとして、日本の新劇も、西洋劇といふお手本がなかつたら、どんなことになつたであらう。これはちよつと想像の及ばない問題である。
 歌舞伎劇の伝統は歌舞伎劇の伝統であつて、その発生進化には、独特の文化的背景があり、その文化は今日、如何なる形に於て、われわれの生活に交渉があるか? すべての進歩的思想は、かの歌舞伎劇を生み育てた時代を近き過去に有することを、どれほど苦痛に感じてゐるか? 内容と形式は別個のものであるといふが如きは、芸術論的にみて甚だ矛盾した考へ方である以上、わが歌舞伎劇の形式は、少くとも現代のやうな「右するか左するか」の険しくして且つ脆き世相の上では、大衆がこれを求むると否とに拘はらず、断乎として排撃せらるべきであらうと思ふ。
 感覚的デマゴジイとも称すべき演劇の分野は、例の「レヴュウ」なるものに於ても見られるが、これはまた更めて論じる機会があるだらう。
 われわれは、民族的たることを努めなくてもよろしい。民族的たることを認めればいいのである。演劇も亦、国際的な歩みを歩んで、形式の進化、ジャンルの充実を計るべきである。日本人には、どんな事をしようと、日本的なものしかできないのであつて、それは恥でも誇でもない。
 演劇に於て、何が日本的であるか? 何が現代文化の流に沿つた日本演劇であるか? それは、公式的に予測を許さぬ一つの謎であつて、後世の演劇史家も、恐らくかやうなことは問題とせぬであらう。
 さて、これだけの前提をしておいて、僕は、今度、村山知義氏らによつて企てられてゐると聞く「新劇団の合同作業」を、興味深く、且つ期待をもつて眺めようと思ふ。村山氏自身の書いた「宣言」をまだ読んでゐないので、その趣旨や組織といふやうなものはよくわからぬが、要するに僕は村山知義といふ一個の「芸術家」を信頼し、その全力的な仕事に十分の意義を見出すものである。
 左翼的といふか、プロレタリヤ的といふか、さういふイデオロギイによる演劇の消長を、僕は今日まで、さほど気にとめてゐなかつた。芝居として面白いものもあつたやうだが、なんだか見に行く気がしなかつたのである。しかし、さういふ「運動」もあつていいとは思つてゐたし、さういふ「運動」が、思想的にも芸術的にも、立派に実を結ぶことに反対する気持は毛頭なかつたのである。が、なんとしても、「ある思想」のための芸術といふやうなものは、それ自身、芸術的に、一種の貧困を招くことは火をみるより明かであるから、わけても、未だ揺籃の時代にある日本演劇にとつて、政治的役割といふ過重の負担は、当然、一挙両損に終るであらうと見極めをつけてゐたのである。
 果して――といふと語弊があるが、あれほど世間的に、又は劇壇的に注目されてゐた、数個の「革命的劇団」は、政治的にも、あつけない敗退ぶりをみせ、芸術的にも、所謂ブルジョワ劇団と歩調が揃はぬほどの舞台技術を生み出してゐないのである。
 かく云ふ僕は、その結果のみをとらへて、快哉を叫ぶやうなけちな量見をもつてゐないことを断言する。が、同時に、新しく結成されようとする合同劇団が、幸ひ、純粋な立場から演劇芸術の完成に向はうとする意図を示してゐる以上、過去に於ける「新劇」の歩みを振り返つて、傾向から傾向に移動する漫策的歴史と絶縁し、演劇の本質的探究と技術の基本的錬磨から出発する覚悟がなくてはならぬ。つまり、「研究」と称する派手な道楽でない、「職業」といふ地道な年期生活をはじめてほしいのである。勿論、村山氏には村山氏の「演劇論」がある筈であるし、その実践をみないうちに、理論的に、かうあつて欲しいなどとは僕から云はぬつもりであるが、恐らく、作家として、又は、演出家としての存在以外に、優れた一人の新劇指導者を、われわれは同氏のうちに見出すことができると信じるが故に、敢て、僕の希望を述べてみたのである。

     三、夢想

 わが国に於ける「新劇」が、今日まで幾多の輝やかしい歴史を有ちながら、遂に、その「運動」の目標に辿りつかなかつたこと、即ち、歌舞伎劇又は新派より独立した「現代演劇」を生み得なかつたことは、いろいろな社会的原因があるにもせよ、結局は才能ある俳優が出なかつたことに帰すべきである。
 一個の文化的教養と、現代的感覚と、そして、優れたる人間的魅力とを備へた俳優の志望者の出現は、何よりも、「新劇」に必要であつた。技術の問題はそれから後である。ところが、「新劇」の畑には、さういふ人物を誘引するに足る好餌がないのである。甚だ穏かならぬ言ひ方であるが、事実は正にその通りで、若しわれわれが「この人」と思ふやうな人を希望通り舞台に立たせることができたら、わが「新劇」の面貌は、たちどころに一変するであらう。芝居のよしあしは、その上で問題にすべきである。ところが、今日まで「新劇」の舞台に立つた人々は「新劇俳優」たるべく、常に根本的な弱点をもち、これを指導するものも、またその弱点を補ふために最善の努力をしたとは思へぬのである。
 ここで「新劇」と移するのは、勿論、研究劇的存在を指すのではない。文明国として、日本も当然もつてゐるべき筈の「現代演劇」を指すのである。その「新劇」の俳優は、なによりも、「生活の奥行」をもつてゐない。ひとつには、年が若すぎるのである。次に申合せたやうに「下町的」である。下町的であることは、ある芝居には適しても、現代劇の一般には適せぬ。これは、意外だと思ふ人があるかもしれぬが、恐らく、舞台生活の裏には、下町文化的儀礼と趣味が浸潤してゐるのであらう。
 僕は常に知人の中の相当年配の人達に会ひ、又は新聞に出る某々名士の写真などを見ながら思ふことであるが、日本の舞台にも、かういふ「柄」の役者が続々現はれるやうになつたら、それだけでも芝居がぐつと面白くなり、人生の姿がその幅と、深さと、真実の味を以てわれわれに迫るであらうと。早く云へば、現代演劇の魅力は、先づ、俳優の「柄」からといふ結論がひき出せさうなのである。
 現代的な意味に於て何かしら溌剌としたところがない以上、俳優は、舞台の上から、「現代劇」の名に於て見物に呼びかけることはできないのである。考へがここまで来ると、現代に於ける演劇革新の運動も、前途尚ほ遼遠の感がある。
 舞台を志す青年子女が、宿命的に負はされた因襲の衣が、遂に、現代のわが劇壇を萎縮させてゐるのだとすれば、僕などの描く夢は、文字通り一片の夢想にすぎぬであらう。(一九三四・九)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「新潮 第三十一年第九号」
   1934(昭和9)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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