演劇本質論の整理
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白《せりふ》
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一、弁明
本誌(新潮)八月号に発表された岩田豊雄氏の文章「演劇本質論の検討」を読んで、僕はいろいろのことを感じた。僕自身に関することが、寧ろ厚意的に書かれてゐるものを、穏健妥当などと云つたらそれこそ可笑しなことになるが、率直に云つて、僕は、演劇的同志たる岩田氏のこの一文に対し、敢て弁明を加へたい慾望を禁じ得ないのである。
それは第一に、明確に名を指してはゐないが、僕の十年来反覆主張する「演劇論」的傾向を指して、同氏自ら、「謂ふところの言葉派」と称し、これに対立する一派を、「動作派」と呼んでゐることだ。そして、その「言葉派」たるや、演劇に於ける「言葉の絶対性」を信じ、動作の劣性を主張し、舞台に於ける一切のスペクタクル的効果を拒否するものと断じてゐる。少くとも僕は、そんな無謀な言説を弄した覚えはない。
なほまた、同氏は、その文章中、何人かが、ヴィユウ・コロンビエ座のジャック・コポオを、所謂、文学派、言葉派、小劇場派の驍将の如く伝へ、彼が動作に冷淡だつたとか、舞台の視覚的側面を無視したとかいふ「嗤ふべき推測」を下した如く推測してゐることだ。僕以外にそんなことをしたものがあれば別だが、これだけでは、所謂「言葉派」の主唱者が、それをやつたかの如く受け取られてもしかたがない。
ここで、はつきり云つておくが、僕は、自分の「演劇論」が、さういふ風に、誤つて理解されてゐたら、非常に残念に思ふ。僕は、未だ嘗て、「演劇の本質は言葉に在り」と云つた覚えもなく、「演劇の視覚的意義」を否認した覚えもない。
なるほど、僕は、十年以前に、戯曲論として、「対話させる術」の重要性――しかも、これは作家の修業課程として小学校であることを明記した――を説き、俳優論としては、最も基礎的な「物言ふ術」の修得を絶対必要とすることを唱へたが、その頃から、世間の一部は、僕を、「言葉至上主義者」と見做すに至り、「言葉、言葉、言葉」といふ標題の本を出すに至つて、いよいよ、動かすべからざる証拠を示したやうになつたが、この標題の意味は、焉ぞ知らん、ハムレットの懐疑的な白《せりふ》なのである。
余談はおいて、僕の主張する演劇に於ける「言葉の重要性」とは、本質論的に、「動作」の劣性をひき出し得るものでなく、日本現代の演劇と、その革新運動の諸相を通じて、最も、根本的にして、しかも全然等閑に附せられてゐる側面を、単に戯曲作家の側からのみでなく、俳優、並びに演出家の立場からも、強調し、その研究と訓練に向つて、新劇の努力を集中せしめるための一つの「提議」なのである。
演劇の本質を論ずるに当り、「言葉」が主か「動作」が主かといふ問題は、岩田氏の云ふ如く、「果てしなき論議」だとは、僕は思はぬ。「動作」が主なる演劇もあり、「言葉」が主なる演劇もあり得ると考へるのが普通であらう。また、「言葉」が心理的で、「動作」が感覚的だといふやうなことも、僕は考へてゐない。なほ、「言葉」のうちに動作を含み、「動作」のうちに言葉を含む場合が屡々あることも知つてゐる。それ故、僕は、演劇の本質を定義する文句の中に「聴官と視官に愬へるイメエジ」といふ言葉を常に用ひてゐる。
ただ、僕が、日本の現状に即した「言葉重視論」を唱へると、一方では、――いや、それは、小劇場主義者の論議であつて、大劇場を目指す演劇は、よろしく、「動作」を主とすべし――といふ説をなす人々がある。
僕は、この説を、一応、尤もだと考へる。但し、「動作」を主とするとは、抑もどういふことを云ふのか、その点で、僕は多大の懸念をもつてゐる。僕の「言葉重視論」は、最初にも述べた通り、「言葉を主とする演劇」を尊重せよといふのではない。「言葉」が主でも、「動作」が主でも、その何れの中にも含まれる「言語的表現」を、その正確さ、その錬磨の程度に於て、従来のレベルからずつと引上げなくてはならぬといふ意味である。それが従来の旧劇でも新派でもない、真の意味に於ける現代劇樹立の要諦であるといふ意味である。
「動作の訓練」も必要であるが、それは、先づ「言葉の訓練」が、基礎的課程を終つてからでよろしい。近代演劇に於ける「動作」の殆んどすべては、「言葉」の感覚から遊離しては、何等適切な効果を生み得ないのである。それが順序である。この順序を間違へてゐたのが、今日までの新劇であつて、現在、新劇の行詰りを来たした最大原因である。
従来の新劇は、その出発点に於て、華々しい意図を示したに拘らず、その意図を実現するための手段を欠いてゐた。俳優は概して、台詞を諳誦するのが関の山であり、演出家は舞台の「動き」、即ち、「動作的要素」にその技術的工夫を凝らし、脚本は屡々、「語られる言葉」としての魅力を無視してゐた。
かういふ批判は、結局、認識如何、標準如何の問題で、或は、「そんなことはない」といふ説を、論理的に屈服させることはできぬかもしれぬが、それは、実際的方面で証拠を見てもらふより外はない。
日本の新劇も、いつまでも研究劇で安心してゐるわけには行かぬから、大に大劇場進出をやつて貰ひたいが、若し、「動作を主とする演劇」が、大劇場向きだと単純に云つてしまへるなら、今日までの新劇は、当然、大劇場向きの修練を積んでゐる筈である。
が、また、今日までの新劇を、文学的であると云ひ、実写的技術以外に能がないなどと云ふ人々があるが、僕のみるところ、文学的であつたのはある種の戯曲だけで、演出家も、俳優も、凡そ非文学的であつたと信じてゐる。しかも、厳密な意味で、演劇的であつたとは猶更云へないのだ。そして、写実的技術に至つては、わが新劇は、遂にその入口にも達し得なかつたことを注意すべきである。
今日の新劇の悩みも亦、茲にあるのである。戯曲のジャンルが、新劇当事者の頭に明瞭に区劃されてゐないといふ点で、僕は、常に失望に似た気持を味はされてゐる。岩田氏は、恐らく、僕と、この点で意見を同じくする人であると思ふが、その所説中、「言葉派」と「動作派」の対立を、「文学性」と「演劇性」の対立と解し、僕が、従来「言葉」の中にさへ含まれる「演劇性」を強調した事実に触れず、「文学性と演劇性」の調和といふよりも、寧ろ、「文学性と演劇性」の本質的一致を説く僕の「純粋演劇論」に一瞥の労をも与へてくれなかつたことは、当然、僕の主張を中途半端な、又は片手落ちなものと誤認させる懼れがあると思ふ。
「動作派――即ち欧羅巴の偉大なる演劇思想家の大多数」といひ、彼等が所請「文学性を排除し、所謂演劇性を昂揚」したと見るのはよろしいし、また、それらの主張が、「文学性のあまりなる蔑視によつて、完全に行詰りを示した」と断ずる正当な批判は、わが新劇界に、もつと深く行渡らねばならぬと思ふが、西洋演劇に於ける「言葉の効果」が、個々の演劇的流派を超越して、一個の伝統的基礎観念、又は、常識的根本技術に関してゐることを前提としなければならぬと思ふ。
それゆゑにこそ、「言葉の氾濫」がある時代の欧羅巴演劇を窒息せしめ、一つの反動的傾向が生れたといへるのであつて、それは、「言葉」自身の罪でなく、「言葉」を悪用し、「言葉」を妄信するものの罪だつたのである。真の意味に於ける、「言葉の重要性」とは、僕が屡々説く如く、「言葉の生命づけ」が完全に行はれることによつて生ずる芸術的効果――それ以外を含むものではない。仮にわれわれが、「言葉派」なる一派に属してゐるとしても、この顕著なる歴史的事実に眼を閉ぢる筈もなく、わが国の新劇が健康な発達を遂げることを何人にも劣らず祈念する僕としては、岩田氏の「演劇本質論の検討」に対し、必ずしも反駁の意味でなく、聊か補足をしておきたかつたのである。
なるほど、近頃、「演劇の本質は動作にあり」といふ昔ながらの議論を蒸し返して、大に「動作を主とする演劇」の提唱を試みてゐる人々もあり、それに対して、「動作動作といふが、動作を如何にすれば、今日の演劇が向上するか」といふ反問を発したこともある。また――一般に演劇の本質は動作に在りと考へられてゐるが、それは「言葉」と対立する意味のものでなく、「内面的動作」は屡々、言葉として表現されるのであるから、アクシヨンとは寧ろ、「生活力の発動」と解すべきであり、舞台上の生命感そのものである。従つて、その生命感が、一定の空間で、一定の時間に流動する状態が、芸術的に表現された場合、これはもう、リズムといふ範疇以外に説明の方法はない。ところで、このリズムなるものは、眼と耳を通じ、感覚と精神に愬へるところの観念的リズムであり、そのリズムの美は、わが国古来の演劇が感覚的一面に於てある種の完成を示してゐるに反し、精神的又は心理的面に於て、幼稚且つ粗野の域に止つてゐる。西洋劇の移入に当つて、徒らに彼等の演劇論を鵜呑みにし、演劇の本質は「動作」にありといふその「動作」を、眼に見える舞台の「動き」と解し、その実は近代戯曲に含まれる「アクシヨン」が、寧ろ最も多分に、「言葉」の心理的表現の中にあることを忘れてゐた結果、舞台の生命は稀薄となり、演劇の魅力は、独自性を失はうとした。そこで、最も、理論を単純化するために、演劇の進化は、「言葉」の本質的把握にあり――とさへ云ひきつたこともあるのである。ここで、「言葉」とは、「肉声化された言葉」のあらゆる表情を指すことは勿論、その表情を助けるための科《しぐさ》及び、その「言葉」の延長たる沈黙などを含むものである。
われわれは、ある反対者の信ずる如く、演劇に於ける眼に見える「動作」の重要性を否定するものでもなく、聴かせる「言葉」のみによる演劇の樹立を理想とするものでもない。くどいやうであるが、もう一度、「動作」と「言葉」とを対立するものと仮定して、さて、舞台上に於ける、「動作」の魅力と、「言葉」の魅力とを比較してみよう。「動作」の方は、なんといつても、機械的で、単純で、訓練が容易であるが、「言葉」の方は、より稟質的で、複雑で、訓練に骨が折れる。訓練が容易であるといふことは、正確を要求する程度が少く、誰でもそこに行けるといふことにもなる。訓練に骨が折れるといふことは、それを卒業しなければ、一人前の専門家になれぬといふことであつて、職業の基礎的条件としては、この方に重点が加はるわけである。
それゆゑ、日本の新しい演劇を作り出すための修業としては、どうしても、また誤解を招くかもしれぬが、「言葉」が先、「動作」が後といふことになり、「言葉」をマスタアし得る「頭」さへできたら、「動作」の感覚は、自ら規整されて、戯曲のジャンルがこれを要求すれば、所謂「動作派」の満足するやうな芝居をいつでもやつてお目にかけられるのである。
が、まあそれは極端な話で、「動作を主とする演劇」には、またそれ相当の研究が必要であり、「大劇場」の舞台を踏むためには、作者も俳優も、それに適した才能と修業がなくては叶はぬ。しかし、それは、「日本の新劇運動は、先づ言葉の訓練からやり直せ」といふ僕の主張に反するものではない。何故なら、如何なる大劇場でも、「生命のない言葉」は、見物を退屈させ、「白《せりふ》の巧みさ」――普通この意味をはき違へてゐるが――は、芝居好きの大衆を魅了し去るものである。それができた上で、さて、脚本のあらゆる大劇場主義的特色を発揮することもできるのである。
築地座の田村秋子が、近来めつきり腕を上げたといふのは定評らしいが、彼女は、何がうまくなつたかといへば、白《せりふ》の言ひ方が可なり洗煉されて来ただけである。洗煉されるといふのは、「言葉」を正しく言ふ工夫が積んで来たことである。俳優としての「頭」ができて来たのである。
同じく築地座で、近頃、評判のよかつた演し物は、里見、久保田両氏のものをはじめ、例へば、二十六番館、おふくろ、晩秋、赭毛、南の風、ルリユ爺さん、等何れも、上演に際し、従来の新劇に見られない苦心と注意を、「白」の上に払つた結果である、と僕は信じてゐる。無論、ま
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