れ相当の研究が必要であり、「大劇場」の舞台を踏むためには、作者も俳優も、それに適した才能と修業がなくては叶はぬ。しかし、それは、「日本の新劇運動は、先づ言葉の訓練からやり直せ」といふ僕の主張に反するものではない。何故なら、如何なる大劇場でも、「生命のない言葉」は、見物を退屈させ、「白《せりふ》の巧みさ」――普通この意味をはき違へてゐるが――は、芝居好きの大衆を魅了し去るものである。それができた上で、さて、脚本のあらゆる大劇場主義的特色を発揮することもできるのである。
 築地座の田村秋子が、近来めつきり腕を上げたといふのは定評らしいが、彼女は、何がうまくなつたかといへば、白《せりふ》の言ひ方が可なり洗煉されて来ただけである。洗煉されるといふのは、「言葉」を正しく言ふ工夫が積んで来たことである。俳優としての「頭」ができて来たのである。
 同じく築地座で、近頃、評判のよかつた演し物は、里見、久保田両氏のものをはじめ、例へば、二十六番館、おふくろ、晩秋、赭毛、南の風、ルリユ爺さん、等何れも、上演に際し、従来の新劇に見られない苦心と注意を、「白」の上に払つた結果である、と僕は信じてゐる。無論、ま
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