うと思ふが、抑も語感から云つて、これとそれとはなんといふ違ひだらう。学校で国語は習つたが日本語は習はなかつたといふものがあれば、誰でもなるほどさうかとすぐその意味がわかるくらゐである。
「書かれる言葉」は、なるほど、文章として、学校の先生から、正しく、時としては、美しく学ぶことができる。しかし、「話される言葉」は、学校の先生のすべてがこれを正しく美しく教へることは困難な事情がある。
先生の心掛けと、当局の配慮によつて、むろん、ある程度までの指導はできるが、自ら模範を示すといふことはなかなか厄介である。従つて、さういふ部門の専門的な教師が必要になつて来る。
此教師の養成は何処でやるか? 師範学校あたりで特別な講座を設けることも差当り必要であらうが、その講座はどういふ人物が受けもつことになるか? かうなつて来ると、「正しい日本語の標準」といふものが問題になる。その日本語は正しいばかりではいけない。活きてゐなければならぬ。現代の感覚に愬へなければならぬ。さういふ言葉の完全な遣ひ方は普通の「練習」ぐらゐでは間に合はぬ。それはもうこのことをひとつの職業として身につけ、これに熟達し、万人を首肯
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング