うと思ふが、抑も語感から云つて、これとそれとはなんといふ違ひだらう。学校で国語は習つたが日本語は習はなかつたといふものがあれば、誰でもなるほどさうかとすぐその意味がわかるくらゐである。
「書かれる言葉」は、なるほど、文章として、学校の先生から、正しく、時としては、美しく学ぶことができる。しかし、「話される言葉」は、学校の先生のすべてがこれを正しく美しく教へることは困難な事情がある。
 先生の心掛けと、当局の配慮によつて、むろん、ある程度までの指導はできるが、自ら模範を示すといふことはなかなか厄介である。従つて、さういふ部門の専門的な教師が必要になつて来る。
 此教師の養成は何処でやるか? 師範学校あたりで特別な講座を設けることも差当り必要であらうが、その講座はどういふ人物が受けもつことになるか? かうなつて来ると、「正しい日本語の標準」といふものが問題になる。その日本語は正しいばかりではいけない。活きてゐなければならぬ。現代の感覚に愬へなければならぬ。さういふ言葉の完全な遣ひ方は普通の「練習」ぐらゐでは間に合はぬ。それはもうこのことをひとつの職業として身につけ、これに熟達し、万人を首肯せしめるていの魅力ある技能となつてゐることが大事なのである。
 耳に愬へる言葉の価値が国民生活の文化的表現として夙に尊重されてゐる国では、演劇がおのづから国語教育の一分野を受けもち、俳優は「話される言葉」の正統的なエキスパートとして、社会全体がこれを認めてゐる事情を、今更ながら私は当然なことゝ思ふ。
 最近わが国にも紹介されたフランス映画の「とらんぷ譚」といふのは、サシヤ・ギイトリイといふ俳優がはじめから終ひまで一人で喋りつゞける風変りなトオキイであるが、この映画の面白さは、フランス俳優のさういふ教養と技術を土台として仕組まれたものと解するのが適当である。
 国立劇場コメデイイ・フランセエズのマチネーには、小学生や女学生が古典劇のテキストなど持ちこんで舞台と睨めつくらをしてゐる図をよく見かけるが、これは、学校の先生や両親に連れられてフランス語の正しい「言ひ方」を聴きに来るのである。
 また舞台を退いた老俳優とか、舞台の収入だけでは生活に余裕のなささうな官吏俳優の内職が、「朗誦《デクラマシヨン》」或は「会話《コンヴエルサシヨン》」の個人教授であることは周知の事実であつて、これまたフランス
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