を指すものに相違ない。
 かくの如く、演劇の本質は「動きによる生命」にありとし、主として「視官」に愬へる要素を戯曲形式の基礎と考へた在来の「ドラマツルギイ」に対し、一種の新しいドラマツルギイが、既に、多くの近代作家の頭脳を支配してゐたのだと思ふ。ただ、彼等が属する「文学的流派」の消長によつて、各々の宣言は、劇文学の一貫した理論を形づくるに至らなかつたまでである。
 その最も著しい例は、「演劇の革新は、先づ文体より始めざるべからず」と主張したヴィクトル・ユゴオの、何かしら解つたやうな、それでゐて遂に目標を見失つた、かの有名な「クロンウエル」の序文にこれを発見することができる。彼は、疑ひもなく、その戯曲に「浪漫主義的リズム」を盛ることで、その特色をはつきりさせようと企てたのだ。そして、そのリズムは、遂に、「詩のリズム」から出てゐないところに、彼の戯曲家としての失敗がひそんでゐたのである。言葉の幻影が、彼をして「観念の抑揚」に対し鈍感ならしめたと云つて誤りはないのである。
 要するに、今日の戯曲不毛は、日本の劇文壇に於ける、「新しいドラマツルギイ」の未だ確立されないところに、一つの原因がある
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