とは必ずしも当を得てゐるとは云へないのであります。それは俳優の個性を無視することになるからであります。これくらゐのことがどうしてわからないのでせうか。
 そこで、古典の演出は、古典そのものゝ美を、演出者の優れた趣味と感性による、自由にして新鮮な表現に盛ることである。これは何人かによつて企てられなければならなかつたのであります。
 これだけのことで、もう「本質主義」の特色が明かになつたことゝ思ひますが、なほ、上演目録選定の上に、見逃すことの出来ない一着眼点は、一つの作品が、思想的に又は審美学的に、劃時代的な何物かを有つてゐるために、所謂傑作と称せられてゐる場合、それは必ずしも採択の主要条件とはならないのであります。それより、同じ作者のものでも、「戯曲として完成されたもの」「戯曲としての魅力に富むもの」、つまり演劇それ自身のために好ましい要素を多分に含んでゐるものを、先づ選ばうとするのであります。何は無くとも、これだけあれば演劇になる――さういふものを、先づ見出さうとしてゐるのであります。そして、それだけを先づ、完全に舞台化しようとしてゐるのであります。
 前章『演劇の本質』に於て述べたこ
前へ 次へ
全100ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング