シャンは、相当にそれを活かしてゐる。のみならず、リュシャンの扮する役だけ見てゐれば、その人物の表現は恐らく批難の打ち処がない。が、しかし、その芝居が全体として、芸術的の感銘を与へる程度は、即ち、その演劇の芸術的価値は、何んと云つてもその脚本の価値によつて、根本的に左右されないわけに行かない。処で、彼が一度モリエールの『人間嫌ひ』に於て、主人公アルセストに扮するや、そのアルセストは、否『人間嫌ひ』といふ芝居は、「天下の見もの」となるのであります。
 それはやつぱり、リュシャン・ギイトリイが偉いからに相違ないのであります。それなら此のアルセストの役を、凡庸な俳優が演つたらどうなるか。そのアルセストは面白くない。『人間嫌ひ』といふ芝居は見るに堪へないものになる。が然し、こゝで考へなければならないことは、それがために、傑作『人間嫌ひ』は、飽くまでも傑作『人間嫌ひ』であることに変りはなく、天才モリエールは飽くまでも天才モリエールであることであります。
 此の事実から推しても、俳優の技芸は、それ自身に芸術たる要素を備へてゐるといふ考へは、間違つてゐるやうに思ひます。才能ある俳優が、或る役を十分に
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