りませんか。そしてソフォクレスにも、シェクスピイヤにも、コルネイユにも、シルレルにも、イプセンにさへも「メロドラマチック」な、「お芝居式」なものを発見して、それを弁護しようとするものがもうないではありませんか。
言葉に拘泥するやうですが、こゝで論者は、所謂「劇的」といふ語から、「戯曲的」乃至「舞台的」といふ語を区別したい。さもなければ、「劇的」といふ言葉の意味を、新しく定義する必要があると思ひます――少くとも芸術を論ずる場合に。
これから、戯曲が――人生の劇的表現であるところの戯曲が――真に芸術的であり得るために、如何なる要素を具へてゐなければならないか、かういふ問題について議論を進めて行きます。
戯曲は、云ふまでもなく、文学的創作の一形式である。従つて、小説や詩と同じく、先づ、文学の審美的規範――若しかういふものがあれば――によつて律せらるべきものであります。
次に小説的表現、詩的表現に対して、戯曲的――劇的――表現といふことが考へられる。
こゝで一応注意しなければならないのは、芸術的作品たる戯曲が、文学的に優れたものでありながら、戯曲的に――劇的に――それほど価値がない
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