ャ説家の眼には小説であり、詩人の眼には詩であり、劇作家の眼には戯曲である――といふことこそ、一層切実に真理を物語る言葉ではないでせうか。
人生のうちには「劇的な部分」と「劇的ならざる部分」とがある――といふ説は、一応尤ものやうでありますが、これまた、「劇的」といふ意味から決めてかゝらなければなりません。
われわれは、既に「美しい」といふ言葉について、多くの疑ひをもつてゐる。「芸術的な美しさ」は「醜いもの」のうちにさへあることを知つてゐながら、何故に、芸術的作品たる戯曲の「劇的」であるか否かを論ずる場合に、恰も一人の女が、一輪の花が、「美しい」か否かを評するやうな評し方をするのでせう。「詩的」といふ言葉が、ロマンチック乃至センチメンタルといふ語に近い意味に於て用ひられる時、此の言葉は、決して「詩」の「美しさ」を伝へる使命は果し得ない。これと同じ理由で、「劇的」といふ言葉が、若し、従来われわれが使つてゐるやうな意味に用ひられるならば、「劇的」であることは、必ずしも「戯曲」の本質的価値を高めることにはならないのであります。近代の小説が「小説的」でなくなつたと同じやうに、「劇」が、或る意味
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