ニいふものが常に陥る弊についてゞあります。
美学者は例の定義癖から「戯曲とは如何なるものか」といふ問題を解決しようと努める。然し、われわれが実際知らうと思ふのは、知る必要があるのは「優れたる戯曲とは如何なるものか」であります。
絵画とは如何なるものか、彫刻とは、音楽とは……小説とは、詩とは……かういふ問題に答へることが、さほど困難でせうか。戯曲とは……これまた、十分とは行かなくでも、正当な答案は、少し文学の道に頭を突つ込んだものから求め得るのであります。
絵といふものを全く習つたこともなく、その才能も全然持ち合せてゐないものが、或る景色なり、動物なりの「絵らしきもの」を描き、これは「絵」だと云ふ。誰がそれを「絵ではない」と断言できるでせう。それと同様に、「これは戯曲だ」と云つて示された一篇の「書きもの」を見て、「これは戯曲ではない」と云ひ得るためには、単なる形式以外、何等審美的法則を必要としないのであります。
普通用ひられてゐる「劇的」または「戯曲的」といふ言葉は、戯曲の本質とどれだけ関係があるか、これは前にも述べた通り、もう一度考へ直して見なければなりません。
「劇《ドラマ》
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