A舞台全体の印象を統一指向する必要から、音楽演奏に於ける指揮者《コンダクター》の役目を果す一人の人間を定めることは、恐らく、演劇始まつて以来の習慣であらうと思ひます。それが、近代に至つて、益々その役目の重大さが認められるやうになり、中には、舞台監督が脚本演出の全責任を負ふべきだと主張するものさへ出来て来たのであります。そして、舞台監督万能の風潮は、一時、演劇の将来を危ぶませるまでに昂進したのであります。
 総て芸術上の理論《セオリー》などゝいふものは、それ自身には、常に一つの美しい真理と、新しい香りとを含んではゐるが、その実行に当つて、動《やゝ》もすれば極端な反動的偏見を曝露して、自縄自縛に陥り、美の本質を離れて衒学的な奇異を弄ぶに至るものであります。
 舞台監督万能論は、かくて、今日の演劇に――所謂、芸術的演劇に――一種の致命的傷痍を与へたと云へるばかりでなく、明日の演劇が、また動もすれば、俳優万能論に結び附かうとする恐るべき動機を形造つたのであります。然し、それは杞憂に終るでせう。なぜならば、現に欧洲の一角には、演劇の本質主義を標榜して、戯曲の価値に舞台の生命を託し、俳優と舞台監督
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