ネにも共通の興味であり、後者は小説にも戯曲にも共通な部分と、小説には必要でなく、戯曲のみに必要な部分とがある。この最後の部分に属する興味、これが戯曲の本質を形造るものであるといふわけになるのであります。
 そこで、此の戯曲のみに必要な興味――即ち「劇的美」は、前章にも述べた通り、一種の心理的波動である。それは何から生れるかと云へば「語られる言葉」と「行はれる動作」との最も韻律的な排列以外のものからではない。
 われわれの日常生活、たとへそれが如何に波瀾曲折に富んだものであらうと、われわれは、その中で実に平凡な、制限された、不調和な、殊にお座なりな曖昧な、時とすると虚偽に満ちた言葉を語り、動作を行つてゐる場合が多い。さういふ生活を描いて、而も、そこに或る芸術的な美を盛るためには、様々な選択、様々な説明(悪い意味でなく)、殊に多くの暗示が必要になる。処で、小説の方なら、それは作者が、自ら読者に対して、その総てを「語り」得るのであります。然るに戯曲は、作者が舞台に出てかういふ役割を演じることは例外である。従つて、それぞれの人物が語り、行ふ事柄は、それ自身に、作者が示さうとするものを間接に示してゐなければならない。つまり、われわれが日常語る言葉の裏を語らせなければならない。それはどういふことになるでせう。つまり人々が、或る場合に口にする言葉、行ふ動作、さういふものを通して、実際、表面には現はれない、又は常人には感じられないやうな「心の動き」を捉へなければならない。そして、その「心の動き」が、如何に暗示されてゐるか、そこに、戯曲の文体が有つ独特の魅力が潜んでゐる。これは「対話の呼吸」といふやうなものから一歩進んで「対話の心理的機微」に触れるのであります。此の心理的機微が、性格的興味と結びついて、人物の構成《コンポジシヨン》が生れる。これらの人物の排列と関係から主題の発展が行はれ、「魂のオーケストラ」が奏せられる。

 戯曲の演出と楽曲の演奏とは、よく比較論議されますが、これは結局或る程度までの問題だと思ひます。
 俳優対劇作家の関係は、演奏家対作曲家の関係よりも一層複雑で而もデリケートである。此の比較論も亦こゝで長々と述べる必要はありませんが、一口に云へば、演劇に於ては、俳優と劇作家の間に、更に作中の人物といふ一個の存在が現はれる。公衆は舞台の上から三つの異つた生命の「浸出」
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