オて傑れた作品が、文学的に価値の少いものであつてもいゝなどゝは云へますまい。対話の部分にそれほど立派な戯曲的才能を示し得る作家が、「ト書」だからと云つて、好い加減な文章を綴るやうな骨惜しみはしない筈であります。
まあ、此の議論は、大した問題にしなくてもいゝ。次に、文字による表現に於て、読者に与へ得る感銘と、言葉や動作による表現を以て、観客なり、聴手なりに与へ得る感銘とは、本質的に異つたものである。故に、文字で書かれた戯曲が、たとへ、文学的に欠点が多く、価値が少くとも、上演された劇の、耳や眼に訴へる魅力はまた別もので、その点、文学に於て示されない、または、平凡にされてゐる「美しさ」が、舞台の上で、溌剌たる生気を示すことがある――といふ議論もあるにはある。
これまた、一を知つて十を知らない議論であります。何となれば、文学としての戯曲を評価する場合にも、舞台的効果即ち、声と動作の幻象をはつきり掴むことが出来なければ、その評価は戯曲評として全然権威のないものであり、従つて戯曲の全体的価値は、飽くまでも、「戯曲を感じ得る」批評家によつてのみ、定めらるべき性質のものであるからであります。
これで略々、戯曲といふものゝ本体が明かになつたと思ひます。
途中の説明が大分長くなりましたが、要するに戯曲のもつ「美」は、文学の他の種類に於ては、求め得られない、――少くとも第一義的ではない――「語られる言葉」のあらゆる意味に於ける魅力、即ち、人生そのものゝ、最も直接的であると同時に最も暗示的な表現、人間の「魂の最も韻律的な響き(動き)」に在ると云へるのであります。そして此の、「響き」は、或る時は『マクベス』の如く高く烈しく、或る時は「桜の園」の如く低く微かに、而も常に調和と統一の美感を保ちつゝ全篇を貫き流れてゐる。主題と結構と文体、此の三者の渾然たる融合がそこに在るのであります。そこで、人生の神秘な竪琴は、戯曲といふ楽譜を通して、舞台の上で奏でられる――といふ段取りになる。
三
そこで、もう少し、戯曲の本質美について云へば、或る意味に於て人生の再現と称し得べき戯曲の幻象《イメージ》は「現はされてゐる人生」そのものが如何なる人生であるかといふ興味と、「現はされてゐる人生」が如何に現はされてゐるかといふ興味とから、芸術的感銘を与へるに違ひない。そこで前者は、小説にも戯
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