ヘ自ら駆使し得る何ものもないのであります。
 演劇は戯曲の頼りとする文字の生命から、新しく声、形及び動作の生命を創造し、魔術師の如く公衆の前に現はれる。声、形及び動作の生命、これはなるほど戯曲のどこを探してもない。たゞ声となるべきもの、形となるべきもの、動作となるべきものがあるばかりである。それをさへなほ他人の作つた戯曲の中に求めることを潔しとしない舞台芸術家は唯一つの取るべき道しかないのであります。即ち自作自演……。それも自分一人で演じられないとすればやつぱり他人の力を藉らなければならないではありませんか。総ての俳優が、自作自演を主張し、他人の作品を演じることを肯んじないならば、今度は各自が舞台の上で、自分の役を創作するより仕方がない。
 動機は違ひますが、「即興劇」又は「即興的演出」といふものがあるにはあります。俳優がめいめい舞台の上で自分の役を作りながらそれを演じるのです。準備なしでこれがうまく行けば、それこそ演劇の一大革命と云へるでせう。いや、準備をしても、なかなかうまく行くものではありません。
 こゝまでゞ、一と通り、演劇と呼ばるべきあらゆる舞台芸術の、本質的要素を検べて来たわけであります。
 これからは最後に述べた「最も厳密な意味に於ける演劇」――即ち「戯曲の演出」――から、如何なる「美」が生れるか、その「美」は、「演劇それ自身の美」として、如何なる本質を具へてゐなければならないか、更に、戯曲の中に、如何なる状態に於て「演劇それ自身の美」が含まれてゐるか、かういふ問題について、少し述べて見ようと思ひます。

       二

 扨て、「戯曲の演出」を「演劇」とする最も狭義の解釈は、「演劇」なるものゝ本質を探究する上に極めて便利な手がかりを与へます。
 こゝで問題を二つに分けて、「戯曲」とは如何なるものか、また「演出」とは如何なることを指すか、かういふ風に考へて見ることも出来る。然し、かういふ研究法は、文芸の一般論からはいつて行かなければならず、「戯曲」といふものを、一度舞台から引離して見るやうになる。これは、本論の目的ではないのみならず、その問題は、他に論ずる機会があると思ひますから、こゝでは、あくまでも舞台を中心として、戯曲のうちに含まれてゐる「劇的美」の本質を突き止めて見ようと思ひます。
 そこで一つお断りして置かなければならないことは、「芸術学」
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