ゥら漸次、物語の内容に比例して言葉の複雑な表現が要求される。そこで戯曲即ち脚本が、此の種の演劇に必要欠くべからざるものとなり、文字としての「戯曲の言葉」が、そのまゝ声又は動作としての「演劇の言葉」となり、演劇の本質を勢ひ戯曲の中に求めるといふ段取りになる。最も普通に用ひられてゐる演劇といふ言葉は、即ち、此の種の演劇を指してゐるのであります。これだけのことは、はつきり知つて置く必要がある。
「劇《ドラマ》」といふ言葉の有つ内容も、実は此処から出発して考へなければならない。然しながら、これとても、徒らに語原的詮索や、伝統的解釈に甘んぜず、進んで近代の演劇が生んだ様々の舞台表現から、もつと広い自由な「劇芸術の本質」を探究することは、必ずしも無意義ではないと思ふのです。
われわれが厳密な意味で、演劇と称へ得るものは、どの部類に属するものかと云ふ問題は、自ら、明瞭になつたと思ひます。
同じ事を繰り返すやうですが、演劇をして真に「芸術」の名に背かしめないために、われわれの求むべきものは、美術にも音楽にも舞踊にも文学にも求め得られない「演劇それ自身の美」であります。
戯曲の有つ美は、例へば空想の楽しさであります。演劇の有つ美は、例へば現実の快楽でなければならない。それほどの違ひがあるのであります。これは、空想は現実よりも美しいといふやうな哲学と何も関係はありませんが、空想よりも楽しい現実の瞬間があつてもいゝではありませんか。
文字が形になり、声になり、動作になる。これは成る程、同じものゝ異つた表はれではありますが、その印象は美の本質に於て異つたものであります。
文字による表現の方が効果の多い「もの」と、声、形又は動作による表現の方が効果がある「もの」とが、実際われわれの「生活」の中にあるのであります。戯曲は決して文字のみによる表現が目的ではない。文字によつて声、形又は動作を暗示する文学の一形式であると云つて差支へないと思ひます。そこで戯曲の言葉といふものが、小説又は詩の言葉に対して、一種特別な内容を要求する所以なのであります。然し此の文字による声と形と動作の暗示は、たとへそこに戯曲の生命があるとしても、文字が文字である以上の力を戯曲の中に求めることは不可能である。まして、文字で書かれた戯曲が、文学としての存在を主張する以上、書かるべき文字の或る限られた能力以外に、劇作家
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