フ意味から転じた言葉である。
然しそれが必ずしも、「眼に見える動作」でなければならないことはない。
また「活動」とは「意志の動き」である。「意志の動き」は「障碍」に遭つて始めて表面に表はれる。故に、「劇」の本質は「意志の争闘」に在る。
或は「劇」は『最も「動き」に富む人生の一局部』である。即ち「事件」である。「葛藤」である。「危機」である。
「劇的《ドラマチツク》」といふ言葉の内容は、かくて「小説的《ロマネスク》」といふ言葉と同様、コンヴェンショナルな「境遇」を意味するに過ぎないやうになつたのであります。
実際、近代に於て芸術の各部門は、殆ど無制限にその表現の範囲を拡大しました。
「小説的《ロマネスク》」ならざる小説が、小説の本流とまでなつた。これは所謂「劇的《ドラマチツク》」ならざる劇の発生を暗示してゐるかも知れない。少くとも「劇的」なる言葉に、一層広い一層自由な内容を附与すべき時代を予想させます。
現にわれわれが、演劇と称へ得る、或はさう呼ぶより外、別の名称を与へられてゐない様々な舞台芸術が、従来演劇の本質と見做されてゐた要素と殆ど関係なく、立派に芸術的存在を主張してゐる。
そこで演劇といふ言葉を、その意味の広狭によつて区別する必要が生じて来る。
然しながら、問題は演劇が如何なる方向に進みつゝあるかといふこと、これがわかつた以上、演劇に志すものは自ら、自分の進路をはつきり見分けて、「これが演劇と云へるだらうか」といふ心配などせずに、先づ何よりも「これが芸術と云へるだらうか」といふ点に、思ひを潜めればいゝわけなのです。
演劇といふ迷宮は、近代の芸術家を多く誘惑して、一度はその中に引き入れた。そしてそれらの芸術家の或るものは、元の入口である出口に辿り着いて息を吐き、或るものは、遂に一生を暗中摸索に過し、或るものは――ほんの僅かの或るものは、やうやく、それぞれの「憩ひ場」を見出しながら、それでもなほ、かつて自分が第一歩を踏み込んだ、その「入口」に向つて、かすかなノスタルジイを感じてゐるのであります。
此の入り口は、或るものに取つては美術である。或るものに取つては音楽である。或るものに取つては文学である。殊に戯曲である。演劇そのものは、どこかに一つの特別な入り口――演劇より出でゝ演劇に入るといふやうな一つの門を備へてゐていゝ筈である。然し、その門とても
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