ニは、経済的窮乏と戦ひつゝ、それぞれ新しい道を開拓しようと努めてはゐるが、その事業は一朝一夕に達し得られるものではない。疲れる者がある。倦む者がある。倒れるものがある。さもなければ、かの誤つた理論、又は尊大にして軽佻な態度を固守する処から、心ある者の嘲笑を買つてゐるのであります。
 この中で、真に正しい道によつて、堅実な歩みによつて、着々演劇の芸術的純化に力を尽した、又は尽しつゝある劇団が、三つ五つ、過去三十年以来欧洲の南北に現はれたのであります。

     舞台表現の進化

       一

 今日までの演劇の進化を戯曲史から離して考へることは無意味であります。そして、戯曲そのものゝ変遷は、小説、詩などの変遷と並行して、文学史の重要な内容を形造るものである以上、演劇の史的研究は、勢ひ文学史の基礎的知識の上に立脚しなければなりません。
 たゞこゝに、近代劇運動の一現象として、演劇を文学より独立させようとする運動が、理想として、舞台芸術家の一部によつて、提唱されつゝあることに、注意しなければなりません。
 しかしながら此の理論も、演劇は各種芸術の綜合的表現であるといふワグネルの主張から一歩踏み出して、文学なり、美術なり、音楽なりは、それ自身として演劇の一要素であることはできない――文学的な部分、美術的な部分、音楽的な部分、さういふ分析的な見方を許さない一個の独立的存在でなければならない――かういふ名義論に過ぎないのであります。
 文学史的に観れば、浪漫主義より写実主義へ、写実主義より象徴主義へ、これが、近代文芸の進化の大勢であります。言ひ換へれば、想像と誇張より観察と解剖へ、更に綜合と暗示へ――であります。
 而も、或る時代の反動的気運――その気運から生れた過激にして単調な戦闘芸術を除いては、常に前の時代は次の時代に好ましい影響を与へ、漸次美の内容を豊富にしてゐることを忘れてはなりません。
 今、舞台表現の進化を論ずるに当つて、少くともそれだけの前置きをしてかゝる必要があります。
 浪漫主義の戯曲は勢ひ浪漫的演出を要求し、写実的戯曲は写実的演出を要求することは自明の理であります。
 たゞこゝで考へなければならないのは、演劇の本質から云つて、如何なる場合にも、舞台に「活きた人間」を現はさうとする努力、舞台に「真《まこと》らしさ」を与へようとする工夫は、絶えず行はれて
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