へば、それも、俳優を活かし得たか否かによつて決するものとみて差支へないのである。
 そこで、文学としての戯曲の大衆性といふことが最後の問題として残るのであるが、これは、前にも述べた通り、取材の範囲、思想的内容とその盛り方、文体の難易等いろいろの条件があるとしても、もともと、戯曲は、小説などと比較して、観念の密度及び深さが興味の対象ではないから、一定の速度を以て推移し得るやう、作者が誘導的な叙述を用ひてゐる。解つた上で快感を味ふのは小説であるが、先づ快感を与へ、それに従つて解らせて行くといふ方法が用意されてゐる。且、戯曲はまた、小説と違ひ、常に、演説の如く、一個の群集に呼びかけ、若くは、詩の如く、無数の群集を動かすやうに書かれてある(アランの散文論による)。それゆゑ、総ての人によつて認められた原理(常識とまでは行かなくても)を先づ持ち出さなければならない。これだけでも、戯曲文学が、普遍的でなければならない証拠になるであらう。してみると、あとは、興味の持ち方、即ち、快感の種類といふ問題になるのだが、これは、戯曲を読むのと、それが舞台で演ぜられたのを観るのと余程わけが違ひ、才能の優れた俳優は、如何なる戯曲の感情をも、一般の人の、即ち「大衆」の感性に愬へ得る能力を示すものである。
 結節を急げば、現在、各種の劇場に於いて上演せられつつある戯曲は、あらゆる意味に於て大衆の「要求」を満してはゐない。観劇の欲望と、余裕と、必要とをさへもつてゐる人々、娯楽と教養とのために演劇に親しまうとする最も健全なる大衆層、自発的に、人を誘つてでも、たまには少々の趣味的見栄にさへも劇場の切符を買はうとする頼もしい連中を、悉く拒避して、どこに大衆劇があるのであらう。
 新しい演劇の行くべき道は、今、明らかに示されてゐる。一方、研究的な、先駆的な演劇運動と併行して、いや、それよりも先に、演劇の真の「大衆性」を自覚した劇場事業が、何人の手によつてか、早晩企てられなければならぬであらう。その時が来て、はじめて、われわれは、現在の演劇的貧困から救はれるのだ。(一九三三・五)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「都新聞」
   1933(昭和8)年5月17、18、19日

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