た俳優でなければならない。
かう考へて来ると、現在の演劇で、正しい意味の「普遍性」をもつた演劇といふものがどこにあるだらう。善きにしろ悪しきにしろ、何れも、「特殊演劇」ばかりである。これで、まだ、その「特殊さ」がまちまちででもあれば、「大衆」は、それぞれ好むところに従つて、その足を向けるだらうが、その「特殊さ」が、不思議に、大同小異である。
「エノケン」の人気は、或は一時的であるかもわからぬが、これは、必ずしも「大衆」の求めてゐたもののすべてではなくて、ただ、これまでの芝居と、「半同半異」の程度に、その「特殊さ」を独立させたことが原因である。どの部分が異なつてゐるかといへば、第一に、「型」のないこと、第二に、「現代の空気」らしきものを吹き込んだこと、第三に、「頓智」の要素を少々交へてゐること、などである。
従つて、それだけ「間口が広く」なつた。あの「与太つぷり」は、一見、この一座の武器のやうであるが、私はさうは思はない。俳優の芸が進歩すれば、あれは不必要になるだらう。あれだけの機智が芸の中に現はれれば、それで見物は満足するのである。但し、さうなれば、今日の客が半分減ることは確かだ。その代り、それを填め合せる同数の新しい客を吸収できることも保証しておかう。
半同半異と云つた、その「半同」とはどういふ意味か。それは、第一に、ほかの芝居と同様、まだ、「芝居でないもの」を芝居らしく見せかけてゐるところだ。第二に、だんだん「低い」ところばかりを狙ふ傾向があることだ。第三に、労働時間の多すぎることだ。第四に……まあ、これくらゐにしておかう。
要するに、「大衆性」といふものは、少くとも演劇に於いては、決して「卑俗性」と同一に見做すべきものでなく、「大衆」が演劇に求めるものは、常に、演劇の純粋性であつて、しかも、その純粋性が、彼等の口に合ふやうに調味されてゐればいいのである。
元来、演劇といふものは、それ自身、最も「普遍的」性質をもつた芸術であるから、いはば、誰にでも「わかる」ものなので、たまたま、「高踏的」と称せられるやうな脚本でも、俳優の演じ方次第では、ある種の魅力によつて、その「脚本」のわからないものにでも、相当、面白く見せられるといふやうな場合がある。勿論、善い脚本と悪い脚本、面白い戯曲と面白くない戯曲といふものはあるにはあるが、結局のところ、演劇全体の価値からい
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