、出雲大社の巫女阿国が歌舞伎踊を演じたのが近世歌舞伎劇の起源だとされてゐる。この歌舞伎踊はまだ劇の形式に整へられてゐなかつたが、とにかく、その人気は日本全国に及び、見物の群衆が殺気立つて刃傷沙汰まで惹き起したので、遂に、寛永の中頃、法令によつて厳禁されたといふ記録がある。
女歌舞伎禁令後に栄えたのは、美少年を主役とする若衆歌舞伎である。これがまた同様に俗衆の好みに投じ、弊害も自ら生じたので、一度は禁止といふことになつたが、法の力を以てしても到底抑へることができず、いつか禁が解かれて、京、大阪、江戸に、それぞれいくつかの劇場が開かれた。多くは遊里を題材としたもので、わが歌舞伎劇の色調は既にこの頃から顕著となつた。
将軍義政の頃、浄瑠璃節といふのが起り、永禄年間三味線が渡来すると同時に、この二者が合体し、更に、慶長に入つて、操り人形の発達と共に、浄瑠璃操りの発生をみたのであるが、これと既に演劇としての形態を整へてゐた歌舞伎との交流が今日の歌舞伎劇なのであつて、近松門左衛門はこの機運を作つた偉大な先駆者である。
徳川期は既に歌舞伎劇の完成時代である。元禄年間では、歌舞伎は主として傾城何々と題する遊里趣味のものか、然らざるものも、遊女を登場せしめなければ見物が承知せぬといふ風潮であつた。
元禄時代は内外ともに平穏無事な時代、即ち幕府の基礎は確立し、鎖国によつて対外関係は小康を保ち、江戸の殷盛は経済的にも一種の好景気を齎した時代であつた。かかる平和は勢ひ民心を弛緩せしめずにはおかぬ。いはゆる元禄の華美な風俗を生み、士道は地に落ち、仇討がすたれて心中が流行するといふやうな現象が目立つてゐる。
若衆歌舞伎が禁止されたのは少し遡つて承応元年のことであるが、それ以来、演劇的興行に対する政令の干渉は、殆ど枚挙する遑がないくらゐである。
参考のためにその主なるものを挙げてみよう。
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明暦元年五月――「跡々より御法度の通り、狂言尽し(俳優のこと)大名屋敷方へ呼候共伺公仕りまじく、衣裳結構なるもの着せまじく、其の上、「人多に奢りたる狂言仕りまじく」「狂言尽しの者、仮令一両人御屋敷方へ呼候共、罷越し、島原の真似(傾城買ひのこと)仕るまじく」云々。
同、四年正月――女方の鬘及附け髪を用ふることを禁止、諸芝居へ島原狂言を仕組み、傾城の真似する
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