れば普遍性を欠き、その優雅繊細も、豪快洒脱も、常にどことなく反抗と見栄と耽溺とを気分としてのぞかせてゐることは争はれない。
 歌舞伎はもとより民衆の慰楽として生れた。民衆の求めるもの、民衆の手によつて作り得るもののすべてが、概ね何らかの形でそこに盛られてゐた。幕府政治が、よし下層民衆を無力視してゐたにもせよ、社会現象としての都市演劇の動向に無関心な筈はなかつた。演劇に対する多くの禁令がこれを証明してゐる。禁令そのものは、もちろん、行政的処置の一端を示すにすぎないが、かかる禁令を発するに至つた動機は、その当否は別として、その時代に於ける演劇の実情と為政者の演劇なるものに対する根本態度とを窺ふに足るものだと思ふ。
 先づ日本演劇の起源と発達の径路とをたづね、この間に於ける政治との交渉を詳さに調べて見ることは、今日の演劇の在り方を理解するひとつの道に違ひないけれども、それはこの小論の企て及ばないところである。従つて、ごくおほざつぱに、演劇史上の記録を拾つてみることにする。
 平安朝の末から鎌倉時代にかけて、田楽と呼ばれる演芸(田植の時に農村で行はれた慰安行事がもとの起りで、これが神事や仏事の余興として広く用ひられるやうになつた)がわが国に於ける演劇の最も原始的なものであるが、北条高時はこれを非常に愛好し、特別な庇護を加へ、自らも舞台に立つといふ熱心ぶりであつたと伝へられる。当時、京都の四条河原に大仕掛の勧進田楽が催され、観衆が殺到して遂に桟敷が落ち、多数の死傷者を出した。劇場施設に対する為政者の注意が恐らくこの頃から払はれたらうと推察される。田楽と前後して、猿楽なるものの発達をみた。これは今日の能楽の前身とも云ふべきもので、大和春日神社の御事を勤めてゐた猿楽四座のうち、観世家は特にその道の天才を生んだが、将軍足利義満の保護によつて内容形式ともに整つた芸術にまで成長したのである。かうして猿楽は室町将軍家の式楽に採用され、遂に貴族武家階級の専用娯楽となつたことは注目に値する。
 猿楽はもと滑稽な所作、猥雑な筋を演ずるものであつたが、貴族武家の生活、趣味に合致するやう次第に洗錬を経たのであつて、その間、一は能の厳粛典雅な悲劇的典型と、一は滑稽洒脱な狂言の喜劇的典型とに分れて今日に及んだのである。
 豊臣秀吉の時代には、京の四条河原附近には、諸種の演芸興行物の集中をみた。慶長年間
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