究劇団に過ぎぬヴィユウ・コロンビエ座を紐育に派遣し、満二年間、常設的にその上演目録を公開せしめた如きは、その最も顕著な例であるが、もともと、演劇はその綜合性のゆゑに、一国のもつあらゆる文化的特質の鳥瞰図、案内書の如きものであつて、外国旅行者は必ず世界各都市の劇場を訪ひ、それが若し相当の名士ならば俳優と楽屋で会ひ、夜食を倶にし、若しそれが素寒貧書生ならば、せめて記憶に残つた名優のプロマイドを買つて帰るのである。
 ここに於て、およそ自他共に文明国を以て許す国々は、外客に対し、これぞわが演劇文化の粋なりと誇り得るやうな施設及び人的要素を整へておかうとする。国内的には社会教育の効果をねらひ、対外的には文化宣伝の具たらしめるやうな、模範劇場及び劇団の経営を、国家自らの手で、或は少くとも国家の負担に於て行ふのが定石である。
 それならば、如何なる演劇が最もその目的に合致するか? その国の古典劇上演はもちろんはぶくわけに行かぬ。しかし、それが仮にシェクスピヤやモリエールやシルラアの如き誰でもその名声を知つてゐるやうな大作家のものでも、古典劇だけでは宣伝価値はわりに少い。シェクスピヤは、英国の作家で英国人だぞと威張つても、これが本格的なシェクスピヤの舞台だと折紙をつけてみても、外国人はそれほど感心もしなければ、珍しがりもしないのである。まして、それだから、現代の英国に好意をもち、尊敬を払ふといふ具合には行かぬ。そこで、現代劇を同時に並べる。場合によると現代劇だけをやる。むろん、現代作家の粒撰りであるが、これまた、老大家だけでは腕はたしかでも、新鮮味が足りない。新進作家のほぼ定評ある幾人かを拾ひあげる。作品は先づ他の劇場で成功裡に上演された試験ずみのものからはじめる。思想風俗の上から無難といふ条件は、それぞれの国柄に応じて守られるが、特に、外交上の考慮が必要である。何よりも自国の文化を毒し、他国人に誤解、或は過少評価せしめるやうなものは禁物である。国民性の弱点を誇大に示したもの、或は、無意識にこれを暴露したものもよろしくない。しかし、国民精神乃至国力の素朴な自画自讃は一層考へものである。自国民の矜りともなり、異邦人の共感を呼び、彼等をしてわれに親しみ、且つ、学ばんとする心を起さしめるやうな演劇は、国民挙つてこれを創り出さなければならぬものであらう。そしてこれはもはや、「宣伝」の意図
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